~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (四)
太宰庁少納言局の賜暇の日が来た。
広元は昨夜読書に夜を過ごした書庫の隣の曝書ばくしょ用の広間で眼をさますと、外はうららかな春の陽射しだった。
老僕が運ぶをすますと、彼は今日こそはあの新しい直衣を、晴れがましいが着用して西八条へと思う。佑子の清純に匂う眉目が浮かぶ。恋知り初めてから姫の羞恥におののくような繊細微妙な魂に吸い込まれてみたいと心がはやる。
「広元どの、ここにおわすか」
外の庭先からの声は、官庁での同僚三善康信だった。
「おう、これは」と広元が縁に出ると、康信は小袖に括袴くくりばかなの軽装で、足は太緒の草履ぞうりばきである。
「今日はまことに好晴、日頃は心屈する繁雑な官務に追われがちのわれら、この一日を洛外の野趣を眺めて共に歩きつつ胸襟きょうきんひらいて語り合おうではござらぬか」
とかく運動不足の日常、休日には洛外を散策する三善康信の健康法の勧誘だった。
「広元どのいかがにや、屯食とんじきも二人分これこの通り、なんと用意のよいことでござろう」
と、彼は袴の腰に結び付けた布袋を指して笑う。屯食とは赤飯をまるめたもの(おにぎり)で、当時は二食でも遠出の野外に出た場合には空腹のしのぎにたずさえる。
── 広元はついさっきまで西八条へと佑子の面影にこがれていたものを、せっかく唯一の友が屯食までこうして二人分準備しての好意に溢れた誘いをむげに断りかねた。男同士の友情が人生ににいかに貴重か、康信と親しむにつれて広元は知った。
── 康信と同じ軽装で打ち連れて彼は邸を出た。
「今日は吉田の里へ御案内いたそう。菜の花が見渡す限り砂金を敷いたようで、小さい流れには芹がい、小高い丘には名もなき小寺や社が木の間かくれに見える洛外ならではの風雅な眺めよ」
少年の頃から読書に籠ってのみ洛外などに遊んだこともない広元は、いま友の言うままに辿る野道の春景色の展開に新鮮な喜びを覚えて、吉田の里へ近づく頃、晴れた空がしだいに曇り、春時雨れかと思う雨脚の強い降りとなり、しかも空に春雷がとどろに鳴りひびいた。
「これはいっとき雨宿りいたそう」
見まわすと木陰に小さな屋根をかけたほこらがある。これ幸いと二人は駆け込んでその細い縁に腰をかけると、康信は屯食の袋を開いた。
「一つ頬ばっているうちに雨もやもう」
そうした食事も愉しく打ちくつろいだ時、
「広元どのが漢文の教授をされた平家の美しい姫は祐姫と申されるか」
「さよう」
恋しい名に広元は胸がときめく。
「その姫をみごとに射止めて婚約成ったと近衛府の隆房少将がしきりと吹聴されると聞くが・・・」
「そ、それはまことか ──」
おののく声に絶叫した広元は祠から飛び出して雨の中を走り出した。
「これはしたり、広元どの、いずこへ!」
康信も慌てふためいて雨中を追いかけた。
康信がようやく広元に追いついたのは、広元が雨に濡れた野道の泥に足もとをすべらしてころび、倒れた時だった。
「この雨の中をなにゆえ走られるか」
友の突然異変に途方に暮れた康信が広元を抱き起こそうとすると、彼は野道のふちの草の穂を手で掻きむしりながら、
「・・・どうしても西八条へ参らねばならぬ!」
と狂おしい叫びをあげた。
「なに、西八条へとな」
康信は瞬間、呆気にとられたが、はたと思い当たった・・・その西八条こそ平家の館、その平家の息女の祐姫が嫁ぐと聞くや・・・このありさまの友の泥にまぶれた姿を見て、この頭脳すぐれた友をかくまで取り乱させる“恋”という魔力に慄然りつぜんとした。
「さては、よしなきことを申した。許されよ」
と悔いてがっくりしたが、声励まして、
「さりながら、広元どの、まず落ち着かれよ、日頃の思慮分別を取り戻されよ」
康信はやっと抱え起こすと、
「・・・面目なけれど、この広元もはや世に生きる力を失うた」
広元の双眼に男のせつない涙が溢れるのに康信は胸を打たれて、
「これはなんと、かくまで深き恋慕とは!」
“露知らざりし身の不覚”と、康信はついなにげなく洩らした言葉を返すがえすも悔いる。
その雨中の野道をいま通りかかる、茶色の古びた塗笠ぬりがさをかぶり色せた法衣の裾を濡らして手に杖をつく僧形そうぎょうの人が、その前方に雨に打たれて立つ広元、康信の異様な光景に草鞋わらじの足を止めた。
220/11/27
Next