~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (五)
笠の下の顔は諸国行脚の旅に陽やけはしているが、眉目に品位備わり、五十を越えた年輩ながら、法衣で包む四肢はまだかくしゃくとして生気が満ちている。
そのただものならぬ僧はやがてつかつかと近づいて、
「そこの御両所、この雨に濡るるままにまかせては、お若いとは申せ身体に毒とあいなろう。わが仮のいおり拙僧せっそう御案内いたそう」
「これはかたじけない」
康信は思いがけない助け舟を得て、広元の泥によごれた手を強く引いて、
「その姿ではあまりに見苦しく、いずこへも歩けぬ。ひとまず御出家のおこころざしに従ってまいろう」
ただ黙々とさながら虚脱状態の友の手を握って離さず僧にみちびかれて野道を引き返すと、まもなく小高き丘の木立の奥に荒れ果てたちいさな庵があった。その周囲は馬酔木あしびに囲まれて、早春に咲いた残花が小さな鈴をつらねて葉がくれのあちこちにぬれそぼって垂れていた。
「いぶせきところなれども、御両所のいっときの雨宿りには役立とう」
と、僧は二人を庵の中へ入れる。その入り口の仄暗い土間には、あたりのものみなすべてが古びはてているうちに、ただ一つ新しい青竹の筒から馬筧かけひの水がふちの欠けた古瓶ふるがめに溢れている。その清水を汲んで、康信は広元を助けて手足の泥を洗う。
「ここはな、むかし比丘尼寺があったというが、無住寺となって久しい歳月に本堂は朽ち果てた。幸い庫裏くりが形をとどめあったゆえ、一所不在いっしょふじゅうの拙僧が洛外での仮の庵となして雨露をしのいで居たが、今日からはここを立ち出で叡山えいざんに戻ろうと雨をついて出たところで、御両所のなにやら困難されるようすに雨宿りにここを用いられてはと思うてな。まあゆるりと休まれよ」
と僧は草鞋を脱がず土間に。そして二人に庫裏に敷いたこれも新しい荒筵あらむしろの上にあがれという。
「おお、これは叡山へ登らるる途上をわれらの為にわざわざ、こはまことにかたじけなし。お言葉に甘えてわれら両人しばらくここに休息つかまつる。ついてわれら怪しき者にてもこれなく、やつがれ(私)少外記しょうげきを勤める三好康信と申す・・・」
と身分証明を名乗りかけるより早く僧は、
「おお、これはまさに奇遇よ、お身の父三善康行殿とは拙僧いまだ俗世にありし若き日からの歌道の友よ。わが出家遁世とんせいしての修行に東山の長楽寺にもりし頃、洛中にりし日に平治の乱突発いたし、その乱を避けて三善殿の烏丸からすま奥の邸に逃れて、乱おさまるまでの夜を宿りし覚えもござる。その折、康信殿はいまだ少童でおわしたな、いまみれば亡き父君になんと似通うおもざしよな」
康信はうち驚かされて、僧を見詰めて、
「さては貴僧は亡き父より聞かされし、かつての鳥羽院の北面ほくめんの武士、佐藤義清のりきよ殿、御出家の法名円位の西行法師にはおわしませぬか」
「まさにその流浪の僧として今日は東、明日は西とよろぼいさまようおかげにて、亡き友の子息にめぐり会うも仏のお加護かな」
と西行法師は破顔一笑すると、
「亡き父の引き合わせかとも存じまするが・・・さてここに連れ立つ友は」
と広元をかえるにると、彼は青ざめてうなだれ、石のように身じろぎもせぬ。
「この大江広元殿は三代の侍読のほまれ高き中納言大江匡房卿の曾孫、少納言局にての同僚にて ──」
と紹介の言葉の終わらぬうちに、法師はかっと眼を見開いて、しげしげと広元を見詰めつつ、
「さてはまさしくわが眼にあやまちなく、この御仁の相は聡明賢知すぐれしと見たはそのはず。したが今何やら心地いたすもすぐれぬごようすじゃの」
「ハッ、心に叶わぬことが起こりてのこのさま・・・」
康信は友のうち砕かれた感じに眉をひそめて自分も悄然とする。
「いや、若き時には誰しも悩み多きものよ。この西行もその悩みを解脱げだついたさんと遁世出家して、この年齢までついに一所不在の貧僧とあいなりてもいまだに ── 世の中を捨てて棄て得ぬ心地して都はなれぬ我身わがみなりけり ── じゃ、御憫笑びんしょうあれよ」
と、ほろ苦く自嘲の声をあげた瞬間ののちに真剣な視線を広元にひたと向けて、声はげまして、
「悩むことあらば悩みに悩みぬかれよ。やがて悩みにもき果てなば、その時に何なりとつかんで雄々しく立ち上がられよ。これが西行の若き大江殿への教えじゃ」
石のように黙りこくった広元の耳に沁み込む声であったが、広元はただ黙念としていた。
「康信殿、土間にかまどもある。釜で湯を沸かして身体を暖められよ。鍋も米も少々残っている。熱いかゆにもこと欠かぬが、さりとて濡れた衣服は困るのう。戸の奥に古びた夜の薄いしとねがあるだけよ。よって西行が叡山に帰る道すがら烏丸奥の邸へ寄り、急ぎこの庵にお届けあるよう申そう」
西行は杖と笠を手にもう土間を出る。
「そ、それはあまりに恐縮」
康信がうろたえると、
「かりにも形相となれば衆生しゅうじょうを救うがならいよ」
カラカラと笑い声を後に西行はもう丘を降りて行く。外は春の日永の、まだ暮れるには早いが、いつの間にか雨もあがって夕焼け空だった。
220/11/27
Next