~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (六)
汐戸は広元の賜暇の日、今日こそ小二条の大江邸へ祐姫の為にの悲痛で重大な役目の為に出かけよとすると、にわかに空が曇って春の驟雨しゅううだった。
「汐戸、雨のあがるのを待ってはひまどるゆえ、牛車ぎっしゃで参るがよい」
祐姫も気をもまれる。乳母や上級の侍女たちが、御用のお使いやお供の雨や雪の日の外出には彼女たちの牛車も備えてある。
“祐姫さまの御用にて”と言えば、委しく聞かずに忠実な乳母どのに牛飼童うしかいわらべ雑色ぞうしき一人が付いた牛車が引き出された。
小二条に車が近付くにつれ、汐戸の胸には重いおりが沈んでよどむ・・・今日のお使いはまことに嬉しからぬ御用である。あの広元どのの恋を葬るお話を告げねばならぬと思うと、わが身の血さえ冷ゆるもの悲しさ、いまから涙が湧く。
大江邸に着くと古色のついた公卿邸の玄関の式台に取次の老家従が現れ、牛車を乗りつけた平家の館のお乳母どの、いつぞや広元の風邪見舞いに現れた汐戸を見て丁重に、
「広元さま、この早朝お庭先の御書斎より三善康信殿ご同伴にて吉田の里への御散策にお出かけにて、いまだ御帰りなされませぬ」
「広元さまの御蔵書の一冊を祐姫さま御拝借願われてのお使いに参じました。ではお帰りまでそのお庭先の御書斎にてお待たせ戴けましょうか」
用向きも告げず待つのははばかれるので口実をつくった。まことの用件は告げられぬ。
庭の書庫脇の広元の書斎に案内された時、もう春の驟雨はあがっていた。吉田の里の雨より京の都の空は晴れるのが早かった。
家従が円座を出してすすめて去った後、汐戸は机と本箱のならぶのを眺めて、広元さま深夜まで灯下に御勉学、そして祐姫さまの面影を思い浮かべられたこのお机に頬杖を、などと考えると、今日その方に残酷な宣言を下す役とはと ── このままこっそり逃げ出したくもなる。
なかなか、広元は帰らぬ。だが汐戸は待った。春日の遅々の季節もやがて灯ともし頃ともなろうにと、汐戸は気が気でない。
その時、庭先に急ぐ足音がして、先ほどの家従が慌てた姿を現して早口に告げた。
「ただいま、三善殿お邸より家僕が参り、御両所には吉田の里にてあの大雨にあわれ、さる庵に雨宿りなされたよし、ついてはお着替えの衣服を届けられよと、叡山の寺へ戻らるる老僧が立ち寄りて告げられたと申しまするので、たたいまお着替えのものを三善邸のしもべにことづけまする」
家従は書斎の隅の葛籠つずらから広元の着替えを取り出している。
「その庵への道はおわかりなのでございましょうか」
汐戸は問うと、家従はうなずいて、
「その老僧が吉田の里のほとりのしかじかと教えて去られたそうでございます」
西行法師は名も告げず去ったのである。
「それではわたくしもその庵へ向かいましょう。そのお着替えもの、しかと牛車の中へお預かり申します」
汐戸は庭を出て門前の牛車に乗り、広元と二人の着替えの包みを受け取った。牛飼童と雑色と、さらに三善邸の僕が一人、これから吉田の里への往復、万一夜に入ってはと松明たいまつの用意もして洛外への道をたどった。
220/11/28
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