~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 雷 (七)
思うたより早く日暮れ前に里へ着くと、
「右手の丘の上じゃそうな、形ばかりの庵のまわりは馬酔木が茂っているが目じるしと、あのお坊さまは言われたが・・・おおあすこじゃ」
声高な僕の言葉を牛車の中で聞いた汐戸はホッとした。
丘の下で牛車がひと揺れして車輪がきしるとまもなく止まった。
汐戸は車を降りて雑色たちと丘の上まで辿ると、小さな庵の土間の隅のかけひをほとばしる水の音のみしいん・・・とした向こうの荒筵の上から土間近くに康信が出て汐戸に、
「このあたりに思いもかけぬ牛車のきしむ音に不審を抱いたが、それなる女人はいずこの方か」
「これは初めて見参いたしまする。平家の館に久しく仕える祐姫さまの乳母汐戸と申すふつつか者、よろしゅうお見知り置き願い上げまする。広元さまに漢文の御指導を仰がれし姫さまが今日御蔵書拝借のお使いに参上いたしまするとお留守にて、お帰りまでとお待ちいたすと ── 三善さまお邸にさるお坊さまが立ち寄られてこの庵に雨宿りとお知らせあったと知り、ここまで参上いたしました」
よどみなき挨拶に、康信はおおこれがわが友をあのようにもの狂おうしくさせた姫の乳母哥、それにしても広元を裏切って近衛少将に嫁ぐ姫がそらぞらしくも広元の蔵書借用の使いに乳母を差し向けて、小二条から牛車でこの吉田の里までとは腑に落ちぬが、それには深い仔細があろうと康信は合点した。
「つきましてはお召替えのもののお預かりして持参いたしました」
と二人の着替えの包みを差し出す。
「これはお手数をかけた。広元殿は雨に打たれて疲労にて、あすこに臥して居られる。汐戸どのとやら、上がって挨拶されるがよい」
康信の指すのは、荒筵を敷いた奥に西行法師の残して行った破れ茵をかずいて臥せる広元だった。
「では御免下されませ」
汐戸は小腰をかがめて土間からあがり、広元の傍に近付き、
「広元さま、祐姫さまのお使いであがりました。いずれお話はあとでゆっくりと。まずはお召替えなされませ。濡れたお召ものはお身体に大毒」
精神の打撃で疲労困憊こんぱいした果てに昏々こんこんと眠っていた広元は、枕もとに忽然と西八条の汐戸が現れた時、夢かとばかり愕然と飛び起きた。
220/11/28
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