~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
雪 丸 あ わ れ (二)
世尊寺伊行の六波羅・牡丹宴の筝曲が成ると、夕霧がその稽古に通って、佑子は昼夜ひたむきの練習だった。その日の晴れの弾奏を二度と返らぬ処女おとめの日のあえかに美しくも清く切なかりし“恋”を葬るわが青春への告別として、奏でる筝の音色に心ゆくまで思いの限りをこめて広元にささげる。それを生涯の美しく、哀しい思い出として、冷泉家へ身は奪われようと心は広元に・・・と。
── どうやら牡丹の宴の筝のお稽古におはげみで、この日頃の憂さもまぎれていられるらしいとホッとした汐戸は、その日も姫のひたすら筝に向かう姿に安心して、やがて近づく婚礼の衣装のために外出した。
館の中にも縫物の所と称する場所があり針女しんみょうたちもあまたいるが、姫婚礼の衣裳となれば、名だたる縫取師(刺繍師)に頼み、金銀の箔も、染色も仕立ても一流の名人の手に頼むので、その交渉は乳母の汐戸の役だった。彼女はその大事な役目に念を入れて日暮れ近くなっても返れぬ。
その汐戸の留守も余念なく筝に向かってひたすらの祐姫の居間の隅には、老いたるちんの雪丸が姫にかしずくごとく、かしこまっていた。
舞ひ選ぶ胡蝶たのしむ
六波羅の園に吹き満つ深見草
群れ咲く花におく露も
幾世を照らす白玉の
数の光の深見草
これは徳子と合奏の新曲のうただった。深見草は牡丹の異名である。この新曲の練習に時に移るも知らぬ・・・だが時刻はたそがれのとりの刻(午後六時)にせまって、春の日永もやがて夕闇せまるころとなったが、祐姫はしめやかなうすら明りの中で絃を奏でる。
対屋の侍女たちは菊灯台の用意や、台盤所だいばんどころに姫たちの夕餉ゆうげの膳を取りに行くやら大多忙の一刻だった。
対屋の入り口の妻戸はそうしたことのすむまではまだ開けてあった。渡殿わたどのの釣灯籠はまだ灯が入らず、そのあたり暮色こもって薄暗いまさに逢魔時おうまがときのひとときを、これ幸いと妻戸から紛れ込むように忍び込んだ曲者くせものが、祐姫の居間から洩れる筝の音をたどってまっしぐらに進んで行くのを対屋の侍女たちは誰も気づかぬ。
だが ── 対の広い板敷に流れわたる祐姫の筝の音は、働く侍女たちの耳にあざやかに響いていた。
典姫付の安良井も、母の汐戸の留守中は祐姫にも心を配る。
「早う、祐姫さまのもとへみあかし(御灯)を」と
侍女をせき立てて、菊灯台を運ばせようとした時、姫の居間から絶えず聞こえた筝の音が、烈しく絃が一度に断ち切られたように乱れたと思うと、雪丸がけたたましく吠え立てる声がただ事ならぬものだった。
「こは、なにごと」
安良井は顔色を変えてみあかしを持つ侍女と共に板敷を小走りに心せいて急ぎお居間へ ── 侍女の両手にささげた菊灯台の照明鏡の反射でさっと照らし出されたその場の光景は ── 姫が筝の絃にひたとすがり付くように面を伏せたそのかぼそい肩に、たくましい男の手をかけて抱き締めて押し倒そうとする姿勢は、まさしく隆房少将だった。その彼の直衣の袖に雪丸が噛みついて吠え立てる。
「これはいかなこと、なにをなされまするや」
安良井の声がふるえた。こうした時に母の汐戸の不在が怨めしかった。
隆房はそうした場面を見られても、恥もひるみもせずニヤリと笑って、
「なんと不粋ぶすい な女たちよの、この麿まろと姫とはすでに婚約を交わした仲じゃ、気をきかして早う消えるがよい」
と姫にますます覆いかぶさるみだらな姿勢を強めるばかりであえる。
安良井はそう居丈高に出られて進退にきゅうしたが、さりとて姫の苦境を見捨てて、このまま引きさがれもせぬ。
「雪丸! なぜ吠えるの、祐さまのお傍ならいつもおとなしいのに」
狆のけたたましい吠え声に、典子が姉君のもとを訪れようと板敷の遠くから雪丸へ話しかけて近づくのだった。
その雪丸は典子の声に励まされたのか、隆房の直衣の袖に噛みついていたのをさらに飛躍させて男の咽喉笛のどぶえめがけて飛びかかった。
さすがの隆房も慌てふためいて拳を振り上げ雪丸の脳天を乱打すると、老いた狆もついに力及ばずばたりと落ちて動かない。それをさらに隆房は足で蹴り飛ばした。この男の趣味は一に女色、二に飲酒、三に蹴鞠けまりと言われていただけに、蹴鞠で鍛えた足で蹴飛ばされた雪丸の身体は宙を舞うて外の板敷の上にどさりと音をたてて落下した・・・。
その隙に彼は脱兎のごとく走って妻戸から渡殿へ逃げ去った。
── 典子は姉君の居間へ近づくと途中の夕闇仄暗いなかを一人の男が妻戸の方へ消えて行く姿を見ると不安に駆られて、
「祐さま、祐さま!」
と姉を呼んで走り込んだ居間の菊灯台の灯の下では、いま板敷から拾い上げられた雪丸の、口から血を吐いてこと切れた、見るも無残な亡骸なきがらを抱き締めて祐姫が泣きむせんでいられる。
「まあ、雪丸が!」
典子は胸もつぶれる思いだった。彼女は姉の抱く雪丸をわが手で撫でさすってこれも泣きむせぶ。
この対屋に飼われて幾年いくとせ、老衰したとはいえ今日まで白い房毛の美しい姿で、姉妹の居間を行き来した寵愛の狆のあわれな最期は、見るからに自然の老衰とは思えない。典子はとり乱した。
「そも何者か、この雪丸を殺したのは?」
誰も答えぬ。姉姫はただ雪丸の上に泣き伏すばかり。
「安良井、そなたはいつ、もの言えぬおしになったか」
典姫の御機嫌のすざまじさに、いままでうなだれて萎れていた安良井もどうでも真相を告げねばならぬ・・・。
2020/11/30
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