~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
蝕 ま れ た 花 (一)
あの夜 ── 典子が母の寝所で駄々をこねていた最中、ようやく西の対に帰った汐戸は雪丸のあわれな最期を遂げた事件を知り、典姫が憤然として北の対におもむいたあとを安良井が追ったと聞いて、あわてふためいて駆けつけ、なだめつすかしつ姫を連れ戻した。
── そのあと、時子はどっと枕に打ち伏したまま、数日起きられなかった。
「北の方、春のお風邪心地にてお引き籠り、しばらく御対面は御遠慮ありたし」
と北の対屋から阿紗伎の申し伝えがあった・・・。
その面会謝絶の北の方へ、たって御面談いたしたしと小檜垣が現れた。
「せっかくながら、まだお風邪が癒えられず」
阿紗伎は型の通り断ると、ホホと含み笑いをして小檜垣は、
「どうやらそれは、北の方のお心にひかれたお風邪とお察し申す。その風邪への良薬ともなろうお話をこの小檜垣一刻も早うお伝えいたしたきあまりの願い、よしなにお計らい下されませよ」
小檜垣の梃子てこでも動かぬ様子に、阿紗伎もかぶとを脱いだ。
小檜垣の小賢しくも言い放った北の方のお心の風邪は、阿紗伎もほぼ知っている。そのお心の風邪の妙薬をこの権謀術数のあざやかな小檜垣が心得て参上したとあっては、強く断りかねたが、
「北の方のお胸の晴れ晴れとなされるようなお話でござろうの」
念を押さねば不安な阿紗伎だった。
「それは申すまでもなきこと、徳姫さま御入内じゅだいの道が開かれるお知らせ」
小檜垣はたしかに自信ありげに涼しい表情で答えた。
阿紗伎はともかく御寝所に入って、
「徳姫さまの御事おんことにて、ただいま小檜垣まかり出ました」
もともと人に会えぬほどの大病でもない北の方の時子である。
「それはほかならぬこと、ともあれ聞いておくといたそうか」
── そこでまんまと首尾よく小檜垣は御寝所の几帳の中に入れた。その寝所の外の板敷に阿紗伎はしりぞいて控える。
「北の方、徳姫さま御入内のこと建春門院がお計らい下さるとあれば、それはもうなによりと存じますれど・・・万が一にも・・・ゆうrt>姫さまにみかどrt>御意ぎょいがあるときは、北の方いかが遊ばしまする」
小檜垣にも祐姫の存在は今も大きな脅威だった。あの御幸の日の印象が彼女に強迫観念を潜在させている。
「女院は佑子がすでに隆房少将と婚約結ばれたと聞かされて御安堵なされたが・・・」
「さりながら、二条帝の御代に、先帝近衛院の大宮さま、帝の勅命いなみがたく二代后となられて、二度の御入内ありし例もこれあり、一天万乗ばんじょうの君の御意の前には臣下の姫の婚約など破らるるは反古ほご紙同然でございましょう」
その不安は時子も密かに抱いていた。それは、建春門院から ── 二番目に謁見の祐姫が帝の御感ぎょかんを得たことをはっきり知った時からだった。いま小檜垣にその不安をさらに烈しく煽り立てられる。
「ついさきごろの日暮れの刻に、渡殿から廻廊のほとりで冷泉院隆房少将にお会いいたした折、御機嫌よからぬお顔でお歎きでございました」
「なんと歎かれたか」
「── さてさてせっかく祐姫と婚約は交しても、なんと不自由なものかの、いまだに指一本触れられぬとは・・・姫に近付くとあの狆の奴が麿の咽喉笛に噛みつくは・・・と」
その小檜垣のねっとりした告げ口に、さては典姫が母の寝所を襲ったあの時のことかと、北の方はほろ苦い思いだった。
2020/12/01
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