~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
蝕 ま れ た 花 (二)
「ホホ」と小檜垣はなまめいた忍び笑いをもらしてから、北の方のしとねの裾に膝をすすめて、
隆房少将は祐姫への意馬心猿いばしんえんの煩悩おさえがたく、お悩みの御様子とお見受けいたしまする。あのお美しい花のような姫を早く手折たおってわがものとなさりたいのもごもっとも、ホホ」
と、ややいやらしく笑うと、北の方も内心あまりに隆房の好き者の露骨さに呆れる。
当時はまだ苦しい儒学の影響は受けぬ時代とて男女の間は乱れがちではあったが、平家一族の気品の上からも姫たちは婚礼の式をあげるまでは、清らかなけがれなき玉であるべきはず、いかに好き者少将の君が意馬心猿に狂われるとも、婚前交渉はもってのほか。
あの好色一途の少将なら「なに、口をぬぐって知らぬ顔をいたせばよいわ」などと、下品極まることを言いそうであると思うと、そのような男にみすみすあの典雅な祐姫を与えるのは哀れと北の方はそぞろに思っても、その仏心を打ち切らねばならぬ。
良人の入道相国の政権確保のために、天皇の外戚となる必要から、徳子の入内はぜひとも実現させねばならぬ。その妨げとなるやも知れぬ祐姫である・・・。
「北の方、いかがでございましょう。このうえは一日も早く祐姫さまと隆房少将との御婚礼の挙式を急がれますれば、少々もさじかし、ホホご満悦。帝も臣下の北の方とあっては・・・」
小檜垣の言葉は扇動的にはずむ。
「さりとて、祐姫のたっての願いで、挙式は六波羅の牡丹の宴にての筝の弾奏の日のあとに定まりしものを、いまさら」
「さあ、それがあの少将さまには待ちかねられる御様子、早く式をあげて差し上げねば、また西の対の狆が少将さまの咽喉ぼとけに噛みつきましょうに、ホホホ」
小檜垣は笑う。だがもうその狆の雪丸はあの日あわれな最期を遂げて、祐姫の小袖に包まれて雑色の造った手製の小さな棺に典子がいつも引いた首輪の紅白の綱と共に納まって裏庭の楠林の中に埋められたのである。
小檜垣から挙式を早められよと、かくそそのかされても、さすがに時子は祐姫の胸深く宿った広元との恋を断ち切らせて、隆房少将へ強いて嫁がせるうえに、好き者の本性を露出させた隆房のために、六波羅の牡丹の宴の前に早くも式を挙げさせるのは、あまりにむごいと思う。
「牡丹の季節の卯月うづきはもうまもなくじゃのに、入輿の支度の為にもそれまで待は当然・・・」
「ホホ、そのひと月の間のご辛抱が、あの少将さまにはなりかねるごようす」
小檜垣には隆房が婚約にこぎつけた日から舌なめずりをして、この美しい獲物を一刻も早く味わってみたいと勇み立っているのが見え透くのだった。
それを見事に利用して挙式を早めて、祐姫を帝の思召しの届かぬところに押し込めねば不安なのである。
「さりながら、やがて牡丹の宴で平家の姫としての名残の姿を惜しもうと、六波羅のさむらい衆も客もみな思うであろうに」
祐姫の美しさは六波羅武士団にも評判で人気があった。
「そのお名残りよりは、近衛府少将の北の方になられて、またいちだんとあでやかなお姿での筝の御弾奏も一興と存ぜられまする」
小檜垣はあくまでも粘り強く食い下がる。
徳姫入内の実現を計るために、このような妖気漂う密談が北の方の病床で小檜垣と取り交わされるのを、次の間で耳に挟んだ阿紗伎はもの哀しかった。
2020/12/01
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