~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
蝕 ま れ た 花 (三)
世尊寺伊行の妻夕霧は、牡丹の宴での祐姫、徳姫弾奏の筝曲の指南にたびたび出向いた。そのある日、夕霧は西八条から帰ると、一大事のように良人に告げた。
「祐姫さまの御婚礼の式は、たいそう早まりまして、六波羅の牡丹の宴の十日前に挙式でございます。そのため御婚礼の御衣裳も間に合いかねるとおん乳母めのとの汐戸どのは身もせる思いと申されました」
妻の言葉に伊行は愕然とした。
「それはまたなんといたした事か、そもいかなる理由でにわかに早められたのか」
「さあ、その理由はなにもわかりませぬしうな。西八条に仕える人たちはみな口々に『どういう風の吹きまわしか』と顔見合わせて居りますとか・・・」
「ハ・・・それは冷泉万里小路までのこうじあたりからの生臭い風の吹きまわしであろうぞ」
伊行は憮然として苦笑せずには居られない。隆房少将邸は冷泉万里小路である。
伊行は宮内ぐない権少ごんのしょう輔の官職上朝廷の儀式で近衛少将の隆房を折々見たことがあるが、いかにも好き者の噂に違わず、気品に欠けた卑猥な人相を思い浮かべると、彼と祐姫の挙式が婚約から駆け足の速度で行われる理由のあさましさが苦々しく了解された。これはひとり伊行のみならず、みな人の思うことは同じであろう。
「汐戸どのは歎かれるには六波羅牡丹の宴にて祐姫さまの無垢むく清浄の処女おとめの日の名残の筝の調べ、折角の世尊寺さま御作曲も、なんと思いもかけず・・・かかることにあいなりましては、さじかし世尊寺さまもご心中おもしろからず思召されようと・・・」
その通り、伊行は落胆と共にやるかたなきいきどおりを覚えて、いまさらに隆房少将を批判せずには居られない。
平家の姫の中でも、たぐい稀なる麗人と評判の祐姫と婚約を結び、人々の羨望の的になって自己顕示欲を満足させた上に、さらにこれ見よがしにニヤリとして“細工は流々りゅうりゅう仕上げをごろうじろ”とばかり婚約の際の牡丹の宴後の挙式を踏みにじって、いち早く婚礼を強行するという傍若無人の振舞いに及ぶ隆房には“人の思わんこともはじかし”という反省力は皆無だ。恥じる、はにかむ、照れる、疑う、などというこまやかな人に反射する神経こそ、人生の詩や夢や恋に必要な抒情感覚であるはずだが、冷泉隆房にはそれがまったく欠如している。その証拠には、汐戸から聞くところによれば御幸の日に祐姫を見初みそめると、その翌夜直ちに姫の義兄花山院殿に同伴して西の対に姫を訪れて臆面もなく言い寄り、はては馬を走らせて花山院殿と共に福原まで出かけて入道相国夫妻に祐姫への求婚を申し込んでたじろがぬ実行力の強い徹底した現実主義者の隆房と比較して、伊行にあざやかに思い浮かぶのは大江広元だった。
この年の早春、まだ花には早い日のたそがれだった。西八条の館の近くでゆくりなくも広元に出会った。
「貴君も西八条へか・・・」
と声をかけると、
「いや、このつい近くでたずねる家が見当たらず・・・」
と、うろたえて答えたのは、今にして思えば純粋な心情の男のみ持つ“男の含羞”だった。たしかにあの時、広元は祐姫への恋慕の思いに堪えかねて、西八条への道を辿たどりながら、めぐらす築地ついじのなかの樹々の彼方の恋しい君おわす館のあたりを眺めつつ、訪れるには羞恥が先立ち、さりとてその館の門辺を立ち去りがたく、さまよう姿であったか・・・と伊行にははっきり思い当たると、隆房と広元の人となりはまさに天地雲泥の差であった。
「さても、さても、祐姫もあわれなれどそれにもまして広元どのの胸中が察せられる」
伊行が口に洩らすと、その言葉を待ち構えていたらしい夕霧がうなずいて、
「祐姫と広元どのが相思相愛の間柄とはうすうす察せられました。それはお二人にふさわしいことと思い、首尾よく結ばれるのをひそかに願っておりましたに」
「そなたよりこの伊行はうかつであった。それというのも姫も広元どのもあまりにつつましく胸深く秘めていられたからだ」
「それゆえにこそ、お二人の思いは深く、生涯忘れられぬ見果てぬ夢とお胸に残りましょう・・・それにしても広元どのにもう祐姫の御婚約の噂はお耳に入ったでございましょうに、そのうえまもなく挙式とあっては・・・」
「近頃会う折もなく打ち過ぎていたが、おそらくえがたき深き痛手を心に受けられたであろう。あの学才衆に抜きん出て前途有望の秀才が、そのつまづきで万が一にも自暴自棄に陥られるようなことがあってはならぬ。おう、今からなら少納言局より小二条に帰られておる時刻、これから訪ねて言葉を尽くして励まそうぞ」
伊行は居ても立ってもいられぬように立ち上がった。
祐姫の漢学の師を初めはにべもなく拒絶した大江広元が姫を七条の町通りで見てから、進んでその指導を引き受けたのも、やはり伊行がかねて彼を姫の師に推薦したからだと思うと、姫と広元の恋に陥る運命に責任があると思い、彼は知らぬ顔は出来ぬといちずに小二条の大江家への足を急がせる。
2020/12/02
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