~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
藤 波 局 (二)
伊行の姿を見ると一人が立って、その奥の祐姫のお控えの間にみちびいた。演奏者の楽屋ともいうべきそこには、右手に几帳がかかり誰かそこに居るらしい。左手の半ば巻き上げられた御簾の中には鏡掛や掻上筥かきあげばこ(化粧具入れ)などが置かれ、その傍にやがて舞台の緋毛氈の上に運び出される名器、“村雲”の銘のある筝を見詰めて打ちしおれてうつむいていられるのは、つい先日冷泉家北の方になられた祐姫、その下座に汐戸がこれもまた憂鬱きわまる顔で控えて・・・そのあたりに漂う雰囲気は言いようなき陰湿な感じであった。
世尊寺さまお見えになりました」
侍女の声で、祐姫 ── 冷泉家北の方が顔をあげてしとやかに一礼され、汐戸も手をついた。
伊行は、その様子はいかにもこれから晴れの弾奏を前にあまりに緊張していられるからではないかと思いと、それをときほぐすために、
「あれほど日夜たゆまぬ御練習をつまれたからには、いささかの御不安もあろうはずなきことゆえ、お心くつろがれて悠々と奏でられるが何よりの秘訣でございまする」
と励ましの言葉をかけて、演奏前の気分をさまたげぬようと立ち去る時、ふとその入り口に脱いである男の浅沓あさぐつが眼に入った。それは公卿、殿上人でんじょうびとの常用する黒漆塗くろうるしぬりの沓だった。よほど体格のいい男と見えて大型の沓である。
階の下では無用の人の出入りを禁じて雑色たちが立つのに、そこを突破して悠々とここに入り込み、沓を脱いで几帳のかげの入り得る男はそも誰であろうと伊行は思うと、一瞬むらむらと嫌悪感が湧いて、逃げるように足早にその隣の徳姫のお控えの間に伺う。するとそこには陽気な笑い声がひびいて、徳姫をかこんで乳母の小檜垣や侍女たちがさざめいて、
「これは伊行さま、ようこそ、今日の牡丹の宴で筝曲御弾奏の徳姫さまの晴れのお姿、ひときわお美しいでございましょう」
などと、小檜垣は浮々うきうきと誇っている。
ついさっき見た冷泉家北の方のお控えの間とはあまりに明暗を異にするのに、感慨無量で伊行がそこを出て出入り口の階を降りようとする時、侍女二人が、一人は今日の客に出る酒肴らしいのを盛り合わせた折敷おしきをささげ、一人は瓶子へいしを持って上がって来た。
伊行はいまや演奏直前の舞台裏で酒宴が始まるとは・・・と驚いて、
「ホッ、これは」
と思わず眼を見張ると、侍女は笑って、
「冷泉家北の方のお控えの間においでの隆房少将さまが御酒ごしゅを召し上がりたいとの仰せにて、おお運びいたしまする」
侍女の答えに伊行は愕然とした。
今日の筝の作曲者の自分でさえ、弾奏前は遠慮したかった控えの間に、いかに良人とは申せ、早くも入り込んでしかも酒肴をそこへ運ばせるとは、あまりの傍若無人の振舞い、弾奏前のwが妻の心を乱さぬよう姿を現さず、牡丹の客たちと共に妻の弾奏に耳をかたむけて、その筝曲の首尾よく終わってから初めて妻を訪れて「みごとであった」とでも声をかけるのが、風雅な作法のゆかしさを持つ教養人であるべきに・・・あまりの泥臭い垢ぬけせぬ不作法、何が上品で何が下品かものの差別のわからぬその男でも、公卿の有資格者とあれば権中納言でもあり、近衛少将とかりになり得る朝臣制度の欠陥を歎じずにはいられぬ。
こうした男には、人間の情緒とか美しい夢とか芸術とか、教養人の持つ抽象的観念はまったく必要なく、それの代わる現実的な利害観念のみ発達して立身出世欲、金銭欲、色欲の欲望達成への強大な実行力を振うに疲れを知らぬのであろう。それでこそ祐姫を手早く獲得して、たちまち婚礼にこぎつけ得たと伊行は了解出来た。
それに比べて叔父の忠度が美しい姪の処女への決別の筝曲を期待したように、伊行も誰も彼も、祐姫の典雅さをでる人々がそれを望んだ無償の愛情の抒情精神の優しさ、それをむざと裏切らせる隆房少将には、ただ妻の形態美のみを男の欲情で受け取るだけで、忠度や伊行、そして大江広元のような姫の心情の持つ魅力などついに知るを得ぬのだと ── 伊行はいまさらに寂寞として、さっき控えの間でのあの沈み込まれた祐姫や汐戸のしおれ方がなんのゆえか、けっして演奏前の緊張感によるのではないとわかると、伊行の眺める牡丹の宴の花がいっせいにうなだれ、花びらを閉じるかとさえ見える心地だった。
2020/12/04
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