~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
藤 波 局 (三)
その日の宴の客となる平家から嫁いだ姫たちは、まず六波羅邸の大広間で父の入道相国、母の時子に対面してから牡丹の園に出るのだった。
つい先日、冷泉家に嫁いだばかりの佑子も、この日の筝曲演奏の為良人の隆房より先に来て父母に対面して後、徳子と共に仕上げの練習を済ませ、舞台裏に入ったのだった。
やがて花山院殿夫妻も現れ、入道夫妻に会って庭園に入った。
「白河殿はまだ見えぬかの」
時子が阿紗伎に問うたのは次女の盛子のことだった。
この九歳で摂政藤原基実に嫁いだ幼妻は早くも十一歳で未亡人となり、叔母の建春門院の配慮で高倉天皇御幼少の頃の保育役に当たり、御即位後その功で准三后じゅんさんごう宣下せんげを受けて、、その邸宅が洛外白川にあるので“白川殿”と称されていた。実家の母からもその名で呼ばれる彼女は、平家にとっては貴重な存在だった。公卿の最高の家柄摂政の北の方となり、まだ処女妻のままに良人に死別後は、父清盛の努力で良人の大半の遺産を継ぎ、継子の基通を育て、やがて天皇の准母じゅんぼともなり、太皇太后、皇太后、皇后の総称“三后”に准せられるとなれば、いまのところ平家の姫としての出世頭であった。
そのまだ十六歳の准后白川殿がこの日の牡丹の客に来られるのを、入道夫妻は待ちかねるのだった。
この日の呼びものの筝曲がもう始まる時刻となると、入道夫妻は牡丹の宴の客たちの挨拶を受けに庭園に出ねばならなかった。だが白川殿の姿はそれまで現れなかった。
それは白川殿の邸内での出来事のためだった。白川殿といえあれる実名盛子が、九歳で嫁いで以来の母代わりとして読み書き、歌道、香合こうあわせまで教えみちびいて身辺の世話一切を引き受けていた摂政家の奥勤めの藤波局は、盛子が未亡人となり准三后の位置に置かれる現在もまめやかに仕えて付き添うていた。
その形式は主従の間柄であったが、事実はまだ平清盛が太宰大弐にある頃、摂政家に出入りした折に美貌で才女の藤波局に生ませた盛子を生後間もなく妻の時子に引き取らせて養わせたのである。
盛子はそれを知らないが、さらにもう一つ知らないことがあった。
それは母の胎内から二人連れで誕生した一卵双生児の二人の女児が、一人は六波羅の館へ、一人は吉田の里の小さな尼寺に別れ離れたことだった。
その当時生れたばかりの赤ン坊にわかるはずがない。そして成長後の今も知らない。六波羅で盛子に付けられた乳母は摂政家へも付いて来たが、先年逝去した。尼寺で佑子を育てた庵主もすでに世を去った。
現在 ── その美しい双生児二人の生い立ちをくわしく知っているのは、その母藤波局と建春門院、入道相国の妻時子、侍女頭阿紗伎、平家の館の宰相役難波弥五左老とそして佑子付の乳母汐戸だけである。汐戸は良人の美濃六や娘の安良井にさえ知らせるをはばかった。
それゆえ、盛子の母と佑子の生母が同一人とは、誰も知らずに居た。ただ二人が相似の容貌は、たがいに母を異にしても、平家美男系の清盛を父とするからと怪しまれもしなかった。
2020/12/04
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