~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
鶴 の 庭 (一)
世尊寺伊行の許へ大江広元から ── 病気全快を報じて病中三善邸への見舞いを謝する書簡が届けられると、伊行はホッとして、あれ以来心にかかっていた広元青年のために安堵し、これからの奮起をうながしたかった。
妻の夕霧も祐姫との恋が哀しい結末を告げた広元への同情者である。彼女も良人から広元の回復を告げられて喜び、
「それは何よりでございました。これから先は祐姫さまとの恋の痛手いたでを一日も早ういやされることでございますの」
「いいかにもさよう。それでこそ身も心も健やかになられるというものよ」
「それにつけても、お腹ちがいの兄上が御当主のお邸にいつまでもお部屋住みでは万事につけて御不自由、御自分の邸を持たれてよき方を御内室ないしつに迎えられるがお心の痛手を癒す良薬と思われまするが・・・」
伊行は年齢としうえの妻の生活の知恵にはいつも同感す。
「なるほど、それにちがいないが、さりとてあのように才たけて美しい祐姫と恋を語られた広元どのに、その姫を忘れる妙薬ともなる方が授かればいいがな」
「いかがでしょうか、祐姫と比べてはもの足りずとも・・・あの奈々では・・・」
「おう、これはなんと思いもかけず手近なところに一人居ったの。うむ、わが娘ながら奈々は美しいと誰も申す、歌もよくいたし書道も父が仕込んだ。筝は母のそなたが教えた。そのいずれも見事に身に付けて居る。わが家系も曾祖父が従四位右京大夫を勤めし能書のうしょの系統、母のそなたも代々雅樂寮うたりょうに仕えし笛と筝の家柄の大神家とあれば、その娘奈々が大江家の三男広元殿の内室に納まるとも、さまでひけめひけめはあるまい。とは申せ平相国へいしょうこくの姫君と比べられては困るがの」
伊行は笑った。
「その平相国の姫方の学問のお相手も時折いたした奈々でございます。西八条では時には広元さまをお見かけいたしたこともございましょう」
「われらそのつもりならば、改めて奈々をひき合せ、広元殿のお気に召さば結構、奈々にも異存はあるまい。事はすみやかに運ぼうぞ」
伊行は妻のかりそめならぬ思いつきに同意すると、わが娘奈々と畏敬する広元青年との結婚計画に情熱を抱いた。なぜ今までそれに気が付かなんだか、灯台もと暗しとはこのことかなと思う。
「広元さまは西八条の北の方にもお気に召した方、惜しくもあのような次第となられましたが、さりとていったん娘の漢学の師として平相国家と御縁のありしを、それで遠のかれるのは広元さまのこれからの御立身のさまたげ、もし奈々とのえにしが幸い首尾よう結ばれるとあうならば、その時は北の方の御意も伺って、ゆくゆく広元さまの御出世をよしなにお願いも出来ましょうに」
夕霧はわが娘の婿ともなれば、いつまでも少納言局の少外記止りでは心もとないと、そこまで考えている。
その彼女も伊行も、北の方時子がじつは広元をひそかに祐姫ならぬ末娘の典子にと思っていたのが水の泡となった事実は、何も知らぬ。
「ともあれ、明日にも広元殿に会うて全快の祝いを述べねばならぬ。もう官庁にも出勤されるであろうから」
「その時、あの七条修理しゅり大夫たいぶさまの御子息へ漢学御指導のこと、お話になられませ。あのようなお方とお近づきになられるのは広元さまのお為にもよいことではございませぬか」
「うむ、その件では日頃お頼みは受けていたが、なにしろ西八条へ推薦したばかりに祐姫と・・・こういうことになっては、考えさせられもするが、病気全快とあれば心機一転されるがよかろう」
「このたびは姫ならぬ、御子息をお相手の御指導ゆえホホ、御案じなさらずとも」
修理大夫とは、内裏の造営、修理をつかさどる修理職の長官、現長官の藤原信隆は邸が七条坊城にあるので、七条修理大夫と呼ばれる。その子息の教育の為に、秀才の評判の大江広元をと伊行はその周旋を頼まれたが、広元は病中でみあったし・・・それを告げることも出来なかった。
七条修理大夫信隆が息子の師に広元を選んだのは、筝を教えに通う夕霧の良人伊行が平家の姫の漢文の師に広元を推薦したと聞いたからでもあった。
2020/12/07
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