~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
鶴 の 庭 (二)
それから、まもなくの日。
伊行出仕の生親司おおきみのつかさの置かれる宮内省に近い太政官庁内の少納言局に広元を訪れた。
彼が久しぶりで会った病後の広元は、その若い年齢よりはるかに一足飛びに大人に成長した感じを受けた。それは広元が今まで伊行の眼には智能だけ発達した頭でっかちで、まだ少年のからをつけている秀才青年に見えたからである。
── 不幸な恋も、病気もこの若者をみごとに鍛え上げる試練となったかと、頼もしかった。
「まずは一陽来復、めでたいかぎりに存ぜられるの、広元殿」
「そう仰せられるとまことに面目なき次第、はからずも病魔に捕らえられてながの日数をむなしく無為に過ごした呆気者うつけもの でござる」
「いや、いや、このたびの御療養はあまりに貴下の張り詰めた学究一途の休養として無駄とは思えぬ。これからこそ捲土重来けんどちょうらいと願いたい。ついてはまず身辺あたたかきに起き臥しされるが肝要、それについてはもうそろそろ妻帯の時期ではござらぬか」
伊行はおのずとそこに対話の中心を運ぶ。
「仰せの如くいつまでもきりなく父や兄のもとにての掛人かかりうど(食客)も不本意なれば、このたび生家を離れて、ともあれ一家の主となって生計をいとなむと心さだめると、幸いこの貧書生同様のこの身にも連れ添う奇特な女人も授かった次第・・・」
広元は含羞を帯びて言葉をとぎらせると、伊行はハッとした。
「おお、おれは祝着しゅうちゃく、していずかたの姫御とな」
「わが友にして同僚三善康信の従妹にて、同家にての長き療養中に心こもりし看護を受けし広元には、生涯の好伴侶はこのほかにはあらじと思うは当然でござらぬか」
「いかにも、いかにもそれは道理」
伊行は自分にも言い聞かすようにうなずいた。すでに事遅かりし! とは残念ではあるが、いたし方ない。わが娘の奈々には父と母の計画を一言も告げぬ前だから被害も与えぬ。
この自分たちの希望は消えたが、広元への好意は変わらぬ伊行だった。
「じつは以前より修理大夫しゅりだいぶ藤原信隆卿より、御子息の学問の師に貴君を望まれて、身共にその仲介を頼まれたが、御病中なので差し控えたが、その件はいかがかな」
祐姫への漢文の師を頼みに行った際も、初めはにべもなく拒絶された例があるので、伊行はあやぶみながら言い出すと、
「おお、修理大夫殿は風雅の人で、鶴を数知れず庭に飼うて愉しまれると聞いたが・・・鶴に学問は教えられぬが、御子息なら教えられもしよう」
広元は軽く諧謔かいぎゃくを弄して引き受けると見た。
「おう、これは意外にも、たやすくお引き受けあるか」
「たしかに承知つかまつる。これから一家を保つにはこの少納言局の一官吏の月俸では安堵出来ぬ。衣食のほかに書籍も求めたい、広元もようやく欲を覚え申した」
と苦笑した。各省官僚の月俸は以前は絹布、白米、玄米、塩、醤、等々が位階によって種類、分量に差を付けて支給されたが、当時の平安末期は平清盛の日宋貿易の展開のおかげで、ようやく貨幣が本格的に用いられた。それでも物資支給に米、麦はあった。
「なるほど、それならば信隆卿はなかなかの有福、秀才広元殿を愛息の師に迎えられるからには、もの惜しみはなされまい。では近日に七条坊城の邸に御同行いたそう」
と伊行は約して、
「三善殿にもよしなにお伝え下され。まことに貴君にはこよなき友よな」
と言って辞去した。
── その日、彼が帰宅して今日の広元との事のいきさつを語ると、
「まあ、それはいかにも惜しいこと、奈々はほんとに運つたなき娘でございますの」
と夕霧はがっかりした。
「おんなは愚痴な者よの。そのうち奈々にはよき婿殿がいつかは授けられよう」
「いえ、いえ、広元さまのような方がたやすくあちこちにあるとは思えませぬ」
と、広元すでに婚約者があると聞くと、なおさら惜しまれる夕霧だった。
2020/12/09
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