~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
徳 子 入 内 (一)
入道大相国だいしょうこくと世に呼ばれる平清盛の息女徳姫に入内の沙汰があったのは、祐姫があわただしくれいぜい泉家へ嫁いだそその承安元年(1171)の七月中旬、当時の季感では初秋を前の残暑であった。
徳姫入内の決定を、おそらく清盛夫妻より早く知っていたのは、白川殿の盛子だった。
この摂政基実の未亡人は叔母の建春門院の計らいで高倉天皇の御幼少の保育に当たり“准母”の位置のある関係からも、妹の入内をいち早く知るのは当然だった。従ってその入内の祝詞を述べに西八条に赴いたのは誰よりも先だった。
この年、六波羅の牡丹の宴の日の夜半みまかった藤波局については、清盛夫妻からわが娘が嫁いで以来の忠実な後見役の死をいたんで、多分の香華こうげとその葬儀には母時子の名代みょうだいに阿紗伎がつかわされた。盛子は真実の母とは知らぬが、九歳で幼妻となった時から恩人であるこの局の裳に服してこの夏を籠った。
その彼女が今、この日の朝まだきに実家の北の対屋に母の時子を訪れて妹姫のこのたびのめでたき入内を祝うと、
「かたじけなきお召しを蒙れど、まだそれだけにこの母も心労大きことよ。白河殿のように幼くて摂政家に入輿にゅうよ、いまは准三后じゅんさんごう宣下せんげを受けて世にうやまわれるはこの平家のほまれなれば、徳姫も入内後に首尾ようまいるよう後押うしろおし(後援)よしなに願いまするぞ」
わが娘のはずながら、太皇太后、皇太后、皇后に準ずる准三后の位置にある盛子を白川殿と呼んで特別扱いである。
「仰せまでもございませぬ、この身にかないますことなら、なんなりと德さまのお役に立ちたいと心得ます」
頼もしい言葉を時子は喜んだ。この盛子もあの佑子もじつはわが腹を傷めしにあらで、先頃世を去った藤波局のせし秘密な双生児であるが、その二人の娘がそろって美しく知恵深く恵まれている。それに比べてわが実子の徳子は親の欲目でけっして美しくないとは思えぬが、御幸の拝謁でも佑子の方が帝の御眼にとまったように、どこか魅力の淡い印象のうすさがある。筝も和歌も書道も佑子ほどきらめく才がなく、よく言えばおおどかな平凡さである。母の時子にはそれが日頃もの足りなかった。
だが ── 入内とあれば平清盛正室の出であってもまだ足りず後白河法皇の養女の名目が必要となるほどなのだ。
「白河殿、徳姫はおだやかな気立てながら、それだけにこれと申して人眼を引いて目立つほどには、筝も歌も筆もまだ未熟よ。内裏のつぼねにはさぞかし才たけし女房たちあまたおわすなかに見劣するとあっては、この母も心安まらぬ思い・・・」
時子も胸を開いて憂慮を告げずにはいられぬ。
「いずれは内裏でも御修業なされましょうが、差し当たっては御入内後お側近く仕える歌にも筆にも才たけた女人を召されて内裏へお入りになられませ。やがては女御から中宮ともなられますれば、おのずとお歌やお文はお側に仕えるその道にすぐれし人が代ってつかまつることは、あるならい」
「おお、それよの、それにしても、その側近くに仕えるものを急ぎ求めねば・・・」
北の方のこの言葉に、ものの響きに応じるようにつぎの間に控えた阿紗伎が進み出た。
「おそれながら申し上げます。そのお側に仕えるは、世尊寺御夫妻の娘御むすめご奈々どのではいかがでございましょう。かねて対屋の姫君方の御学習のお相手にあがりました」
「おお、いかにも」
時子がうなずくと同時に盛子も、
「思いがけず手近なところに、よき人を得ました。世尊寺どのにも夕霧どのにも、この盛子は摂政家へ嫁ぐまでの僅かな月日ながら教えを受けました。その世尊寺どのの御娘とあれば氏素性も正しく、学者の父と筝曲の母の血を享けられたみごとさ、内裏にお供してさぞかし德さまのお役に立ちましょう」
「これで安堵いたしたが、さてあの小檜垣こひがきがぜひとも御入内にも付き従って内裏へのお供つかまつりたいと申し出てはおるが、さてそれはいかがいたしたものであとうかの」
徳姫入内の功労者と自認している彼女は内裏に入って徳子の傍にありたいと願い出ている。
「徳さまの乳母とは申せ、皇居の内裏に仕える女官、局の女房たちはいずれも氏素性低からず教養も備わらねばなりませぬがおきてでございます。それに德さま平家の姫ならで院(法皇)御猶子ごゆうしとなられての御入内なれば・・・」
盛子に言われて、阿紗伎は我が意を得たりと、
「残念ながらあおの小檜垣にはその資格はござりませぬ。まずそれよりも小檜垣どのはほかの姫方のお乳母とそり・・が合わず、とかく眼に余ることがございますゆえ、その気性では内裏のお局にて災いを引き起こしてはと案じられまする」
阿紗伎は小檜垣の陰険で無智なかけひきを弄する裏面を知るために、それが徳姫の傍に付いて万一平家の品位にかかわるようではと、思い切って進言せねばならなかった。
時子とて小檜垣に批判の眼を持たぬにではなかったから、敢然としてその処置を付けることのした。
「小檜垣は乳母とは申せ、徳子誕生後に乳つけをせし乳人めのとにはあらず、乳つけは六波羅武士の妻にして心身すぐれしが二人付いて、やがて乳離れ後はおのおのの良人とわが子の許へ帰りしあとを傳役もりやくに付けしなれば、徳子入内にて西八条を出る時は多年の労に酬いて生涯困らぬものを与えていとまをつかわしましょう」
「母上のそのお計らいがよろしゅうございましょう。すでに建春門院のおはからいにて、名門出の典侍てんじ大納言佐だいなごんのすけ、阿波内侍ないしが、徳さま御入内後の万事を御指導お介添えいたすことになりますゆえ、もうなにも御案じ遊ばしますな」
そう知らせる盛子が、まだ十六歳の未亡人ながら、生母藤波局を失ってから気のせいか、にわかに大人びたひとかどの見識を持った貴婦人として時子には頼もしく思える。
2020/12/11
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