~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
徳 子 入 内 (三)
祐姫が嫁いだあとは末の小姫の典子が一人ぼっちの対屋に盛子が入ると、准三后の肩書を持つ白川殿の訪れとて、慌てふためいて出迎えた乳母安良井がひざまずいて、
「典姫は釣殿でお遊びでございます。ただいまお連れいたします」
「こちらより参ろう。この館の釣殿もなつかしい」
白川殿も幼妻になるまでは、その池辺の建物に夏の日を遊んだ思い出がある。
安良井が恐縮して西中門廊から先導して釣殿に入ると、四方開け放った明るい建物の床板の中央を四角に切り取って池の中に竿なしの釣糸を垂れる備え、切口の周囲は低い欄干がめぐらしてある。その欄干に手をかけて片手で釣糸を池中に垂らして余念もない典子は、やはり寛子のように素肌に生絹をつけて切袴の夏姿である。
釣をさまたげまいと、付き添う侍女二人も息をひそめて見守っているので、おのずと盛子も足音をひそめて近づいて、脇から釣口の下ををのぞくと、その下の清冽な池の水が四角な水晶の鏡めいて盛子の顔がうつるのだった。
「あっ、ゆうさま!」
典子が叫んではっと顔を振り向けたのは、いま釣口の水に写った面影に祐姫を見たからである。
「御姉君白川殿の御方わたらせられました」
安良井の声に典子は真昼の夢からめて、いまわが眼の前にある姿は佑子に眉目は似ても、それが白川殿とうやまわれる姉の盛子であるのを知った。典子の幼き日に早くも嫁いでこの館の対屋から去ったので、姉妹といっても馴染みの浅い姉であった。
「魚は釣れましたか」
その姉は優しく微笑むと、典子は首を振った。
「いいえ、西八条の池の鯉はみな賢くて餌だけくわえて逃げ、釣針にはかかりません」
侍女たちは手を口もとにかざして忍び笑いをした。その彼女たちが姫の釣針につける蚕のさなぎはいつも食い逃げされる。
釣の真似事はしても針に合わせて釣り上げる呼吸は知らぬようなあどけない末の妹を盛子は眺めて、
「徳さまも御入内、やがて寛さまもいずれ嫁がれて、次は典さまの順、いつまでも幼げな釣のお遊びなどなされますな」
と姉らしい訓戒を垂れると、
「典子は一生どこへも輿入れいたしませぬ」
と敢然と言う。
「これはしたり、今をときめく平家の姫が生涯嫁がず老い朽ちてゆかるるとは、世の噂にもなりましょう」
「それなら尼になってお寺に入ります。髪をおろして仏に仕える身となれば嫁がぬとて誰があやしみましょう」
典子のひるまぬ言葉に、傍の安良井はおろおろしている」
「これは、これは、典さまのお口には叶いませぬな」
盛子は笑うより仕方がない。
西八条の小姫は末ッ子のわがままの怖ろしいものなしの振舞いに、母君も手をやいていられるげな ── とその評判は白川の館にも聞こえてはいた。
「典姫さま、もう釣のお遊びはこれにて、対屋へお入りになって、御姉君とごゆるりとお話しなされませ」
安良井が言うと、
「いやじゃ、どうしても一尾釣り上げるまでは口惜しゅうてここは動かれぬ」
と典子はまたも釣糸を振り回すと、慌てふためく安良井に、
「小姫のお気のすむようにおさせするがよい。この上はお邪魔はせずに帰るゆえ」
がんぜない男の子のように駄々をこねる妹には降参して退却と決め、釣殿を去られる白川殿御方に申し訳なく、身の縮む思いの安良井が中門廊から正殿の廻廊へとお見送りに従う途中で、
「乳母どのもさぞかしあの小姫には・・・」
と白川殿が思いやりを示されると、
「はい、御利発でもあり御気性もすぐれていらえますに ── 西の対でごいっしょのお仲睦まじい祐姫さまがお輿入れのあと、おさびしいあまりにあのように釣殿で・・・お気を紛らしていられるのでございます。御無理もございませぬ」
安良井はしおれて言う。
「それほど祐さまをお慕いなら、冷泉家へときおりお遊びに舞いらるればよいものを」
盛子に言われても、安良井は口ごもりながら、
「はい、それが・・・はばかり多きことながら、典姫は隆房少将をいたくお嫌いなされて、冷泉小路には一生近寄らぬと仰せられます。それを御承知の祐姫さまも北の方となられて以来、お邸へ典さまをお招きになりようがございませぬ・・・」
── あの過ぎし日の牡丹の宴の客たちの間でも祐姫の婿むこ君がかんばしからぬ評判だったのを知っていた盛子は、典子の心境にも同情する。
「それなら、冷泉北の方より西八条へおりおりお越し戴いてはいかがか、さぞ典さまもお喜びであrぽうにの」
「さように願わしゅう存じますに、祐姫さまもお輿入れもなく牡丹の宴の筝曲で六波羅におみえになりましたその後は、とかくお健やかならず、この夏の暑気にもきつうお弱りでお引き籠り、まだ西八条へのお里帰りも遊ばさず・・・」
「それはまた痛わしきこと・・・」
白川殿は佑子が、おそらく心にそまぬ婚儀のあとの憂悶の月日に打ち沈む・・・かと案じられたが、この場合みだりにそれには触れられぬ。
「典さまのあの無手むて勝手なやんちゃをお止め出来るのは冷泉家北の方のみよの」
さすがの“准三后”白川殿御方も妹の典子は手に負えずと吐息して帰られる。その糸毛の牛車が西八条の総門を出て間もなく、向こうから総門に向かって牛飼童の掛け声に導かれてゆく糸毛の車とすれちがたた。
その車のすだれの中の女人は冷泉家北の方の佑子だった。徳姫の入内の祝いの礼は欠かされずと、牡丹の宴以来初めて西八条を訪れるのだった。影の形に添うごとく汐戸が付き従う。
2020/12/12
Next