~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
徳 子 入 内 (四)
── ついさっき白川殿がお帰りになったその直後に、西八条の館は隆房北の方を迎えた。この晩春に冷泉家に嫁がれてから、六波羅の牡丹の宴で筝を弾かれて以来、この西八条への訪れは初めてであった。
「おう、これはまたなんと絶えて久しき方の美しい姿を見るものよのう」
北の対に彼女を迎えた母の時子は、もうわが娘というより近衛少将隆房夫人としての扱い方で歓迎した。
母の目から“美しい姿”と言わずにいられぬほど、隆房北の方の祐姫は人妻となっても変わりもせで、この館の姫のままの清らかさ優雅さであるが、この夏の夏痩せで細腰さらにかぼそく、人知れぬ憂いを秘めた姿はもののあわれの優艶を匂うごとく漂わせる。
徳姫の入内の祝詞を受けたのち、母の時子は、
「これでまた一人対の姫がこの館をあとに立ち出でます。それに寛子も来春には摂政家へ入輿にゅうよとほぼ定まりました」
「それは重ねてのめでたさ、あとは典さまだけ、おさびしいでように」
嫁いでこの方、会う折もないその妹のことが心にいつもかかる優しいこの姉だった。
この時、阿紗伎が進み出た。
「典姫さまのおさびしいのは、祐姫さま冷泉家へお輿入れ後からでございます。御無理もございませぬ。あのようにお慕い遊ばした祐姫さまおわさぬとあっては・・・」
鼻をつまらせたその声を時子は引き取って、
「さりとて、姉妹が一生共に暮らせぬは道理、それを聞き分けぬ我儘わがまま娘、ついさきほども白川殿が見えての、典子に会われ、小姫もやがては嫁がねばならぬ身とさとされると、どこへも嫁がぬ、どうでも嫁がねばならぬなら尼寺へ入ると申したげな。白川殿も驚かれて、『あの小姫の無手勝手のやんちゃをお止め出来るのは冷泉家北の方のみよ』と嘆かれたそうな、さてさて困った小姫よの」
典姫の行状に弱り果てた安良井に告げられて、この母はいまさらに悩んでいる。
だが ── 祐姫はあえて驚かぬ。典子が才気渙発で、時に奇想天外な言辞を弄するのを知っている。それゆえにこの妹の気質を愛した美しい姉である。
「今日見えられたを幸い、典子に会うてその不心得をいめしめてたもれよ。もうこの母も手に負えぬ典子も大好きな姉君の仰せなら必ず聞き入れよう」
「母上のお頼みが果せましょうか、いかがにや心もとのう存じますれど・・・」
たお やかに小袿こうちぎの裾をはらって座を退く隆房北の方に、次の間に遠く控えたお供の汐戸がしたがって、まず徳姫の入内を祝うために東の対へ渡り、寛姫にも会うて出る妻戸の前に早くもお迎えに安良井が待ち受けて居た。
「典姫さまがお待ちかねで、そなたをお迎えにか」
母の汐戸が安良井に言うと、
「いいえ、典姫はまだ御存じなく釣殿でございます。わたくしは白川殿御方をお送りしてのち対屋にて休息中、隆房北の方のおいでとのお知らせを受けて嬉しさの余りただいまこちらまで」
乳母母娘おやこの問答を傍で聞かれた隆房北の方は、
「汐戸、それでは典さまのいらっる釣殿へ参りましょう」
と、西の対を越えて中門廊の先端の釣殿へ向かわれるその途中、安良井は典子の近況を告げずには居られぬ。
「この夏は日ごとに釣殿にてお暮し、釣のお遊び、母君が釣は男の子の遊びとお叱りになられてもい聞き入れなく、その遊びも魚を釣りになるより釣口から池の水をじっと眺めていられます。さきほど白川殿御方がそこへお越しの折、御方のお姿が池水に写ると『祐さま』と嬉し気にお叫びになりました」
聞くより隆房北の方は涙さしぐまれました。
── その釣殿に近づくと、中央の釣口の低い欄干に身を託して典子がじっと寂し気に池水を見入る孤独そのものの姿に、北の方はおのずと足音を忍ばせて近づき、その背後から両手で典子の眼をおさえて言われた。
「そも誰やらん」
幼い頃たがいに興じた他愛のないたわむれである。
典子はしなやかな指先でわが眼を覆われたまま胸がときめいた。祐姫であることをすぐ知ったのは、眼は隠されても、懐かしい香が、祐姫がいつも髪や衣裳に焚き込まれる白檀びゃくだんが、ほのかに匂うからである。
かたときも忘れぬほど慕ったその姉君をいま眼の前にした典子は嬉しいというより、ひどくはにかんでしまって言葉もない。
真昼の残暑の陽ざしも、やがてうつろうて池の中の釣殿には秋の気配が忍び込む。生絹すずしの単衣を肌にじかに着た夏のいでたちの典子の手を引かぬばかりにして、
「典さま、対のお居間へ入りましょう。もう釣殿で涼む季節ではございませぬ」
と姉君に言われると、素直に「はい」と、未練もなく釣糸を離して対屋への透廊すいろうへ向かう。
ついさっきまで、魚一尾を釣り上げるまではここを動かぬと駄々をこねた小姫ふぁたちまちこのありさま、安良井は感じ入って、
「典姫さまには冷泉家北の方のお言葉がいちばんの良薬でございますの」
と微笑むと、その北の方は振り向いて言われる。
「佑子はこの西八条を訪れた時は、もう冷泉家北の方ではのうて、西の対の1ありし日のわが身に立ち帰る心地ゆえ、さように思うて欲しい」
そのお声がいかにもしみじみと汐戸や安良井の耳に沁み入ると、汐戸は胸を打たれて、
「いかにも仰せごもっともでございます。わたくしも、西八条のこの館にお越しの折には、いまも祐姫さまとお呼びいたしとうございます」
と言うのは、彼女は冷泉家入輿について入って以来、その邸の人々が祐姫を“北の方”と呼ぶのに抵抗を覚え、せめてこの御実家を訪れられた時にこそ、こころゆくばかり“祐姫”とお呼び出来ると思うのがほっとして嬉しいかぎりなのであった。
2020/12/13
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