~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
徳 子 入 内 (五)
安良井は対屋に入ると、いそいそと先に立って案内するかのように足を進めるのは、かつて祐姫が嫁ぐまで起き臥しされたお居間である。
「あのお居間は典姫さまのお望みで、いまだにお片付け申さず、几帳きちょうも二階厨子ずしもお机も貝桶までもそのままでございます」
祐姫輿入れの調度はいずれも新品を揃えたので、対屋の生活で使い古したものは残されていた。それを片付けようとしても典子は許さず、姉のありし日のように置かせていた。それはせめても姉を懐かしむよすがとするためであった。
「さあお入りあそばして、典姫さまと貝合かいあわせなどなさりませ」
安良井は、祐姫の居間の調度が今も整然と置かれてあるのを喜ばれよと言うのだったが・・・かつてのその居間の主はそこへ入ろうともせぬ。
「典さまのお優しいお心づくしは身に沁みても、わがありし日のこの居間は、あまりにさまざまの・・・ならば忘れたい思いでもあるゆえ、今ここに身を置くのは心辛い・・・早う何もかも塗籠ぬりごめの中に押し入れてたもらぬか」
祐姫は切ない言葉で、そお居間に顔をそむけて行き過ぎようとされると、汐戸も安良井もかつまた典子もはっとして沈黙するのだった。
祐姫のその居間こそ、大江広元とのはかなき恋の廃墟であった・・・そしてそこでちんの雪丸を蹴殺した男の妻となった身のいま ── そてにゆえにこそ西八条の実家を訪れるのを避ける気持ちも当然と、すでに汐戸は察していたのに、今むかしのままのお部屋がそこのあったとは、祐姫にはなつかしいより苦しい刺戟であったと知って慌てて、
「このいまは無用のお居間はいずれお片付け戴くとして、今日は典姫さまのお居間で、御姉妹つもるお話をあそばしませ。わたくしどもはお茶の支度など・・・」
と、典姫の部屋に姉妹を向かわせて、自分たちは引き下がった。
典子はあれほど会いたかった姉君と今差し向かいで顔を合わせると、万感こもごも湧き出でて何から話し出してよいか、さすがの怖いものなしのやんちゃな小姫も、この大好きな憧れの美しい姉君の前では可憐そのものであった。
「典さま『どこへも嫁がぬ、尼寺へ入っても』と言われて、白川殿をお驚かしになったそうな。どこの尼寺へ入られても寺には釣殿もなく魚釣のお遊びなどは叶いませぬ。尼になるには第一なみなみならぬ御修行、経文も習わなばなりませぬ。亀の字は亀の形にそのままなどではすまされませぬ」
九つまで尼寺で育てられた佑子のこの言葉には典子もみごとにおさえ付けられる。しかもその亀の字云々は、ありし日にあの大江広元が佑子に教える「白氏文集」の机のそばで典子がおしゃまを発揮した記憶がある。この姉がその恋の思い出悲しい対屋へ入れば、おのずと広元とありし事どもが浮かぶのかと、典子までも悲しかった。
「さりながら尼寺へでも逃げ込まねば、それ輿入れ、それ嫁げとみながうるさく申しましょう。それが」いやでなりませぬ。それを言わせぬ工夫がほかにありましょうか。姉君お教え下さいませ」
典子が言うと、祐姫は答える。
「それは、いずこかよきところへお嫁ぎなされませ。そのあとは二度と誰も嫁げとは申しませぬ」
この姉君の詭弁きべんに典子は笑いむせんだが、そこへ茶菓を運んで入りかけた汐戸や安良井が姉妹の問答を耳にはさんで、
「ほんに、それがよろしゅうございます」
と祐姫の詭弁を正論化してしまう。
「この対屋には、佑子の魂の亡骸なきがらがいまもさまよう心地がして、典さまにも会いに参りかねますが、もし典さまがいずこへかお輿入れあれば、その邸へ佑子はいつでも心やすう伺えます」
姉のこの言葉に典子は考え込んだが、
「祐さま、そのお約束かならずお忘れなされますな」
と言うなり、汐戸と安良井に真剣な顔を向けて、
「この典子の輿入れするよき邸、早う探してまいらぬか」
「は、はい」
これで北の対の母君も御安堵と二人の乳母は祐姫の隆房少将北の方に平伏して感謝した。
2020/12/14
Next