~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
人 の 音 せ ぬ 曉 に (一)
承安二年(1172)二月十日、女御にょうご徳子は中宮に進んだ。
つい去年の十二月十四日に入内後、まもなく女御になり、翌春早くも皇后と同じ資格の中宮になった娘の父清盛入道は、彼がかねて望んだ藤原道長が娘を中宮に立て外戚の権をほしいままにした、その同じ軌道に乗ることが出来た。
「これで平家政権はますます御安泰」
と、六波羅、西西条の館ともに一族家臣共は喜びの声に満ちた。
だが清盛入道は言う。
「まだ喜ぶには早かろうぞ。中宮徳子より皇子御誕生あるまではな」
藤原道長の長女が一条帝の中宮となって後一条、後朱雀の二帝を生んだ輝かしい功績を思えば“いまだし”と清盛には思える。
── けれども、高倉天皇はまが十二歳の少年である。四つ上の中宮とは従姉弟同士のお遊び相手のむつまじさに過ぎないのが、その頃の現状であった。
このことは西八条の母時子のもとにも伝わっていた。
その年の三月、西八条では第五女寛子が、姉のもり子白川殿のかねてからの希望通り、盛子の継息子基道に嫁ぐことになった。婿殿は十四歳、花嫁は十五歳。
挙式の翌日の露顕ところあらわしの宴に一族縁戚みな顔をつらねたが、冷泉家は隆房少将のみで、北の方佑子はもう産月うみづき近い姿を人眼にさらすのを憚って見えられなかった。
式の前日に、その北の方のお使いで祝いの品を持って汐戸が西八条に参上、北の方の不参をお詫びすると、清盛夫妻は機嫌よく娘の安産を願って、
「やがて冷泉家を継ぐよき和子を生めヨと父は祈ると申し伝えよ」
と清盛は力強い声で言った。
汐戸は立ち帰って、さっそく北の方に父君の言葉を報告すると、佑子はさびしげに、
「父君の仰せかたじけなけれど、この身はぜひとも姫がほしい、生みの母の顔も知り得ぬ赤子あかごのうち尼寺に送られて育ちしわが身の生い立ちのあわれさを思えば、わが姫はこの母の胸に抱いて育てて、やがて乙女と生い立てば、恋も知りめように・・・その恋を成就させて相思うひとに嫁がせてやりた。その母がかな わざりしこと、その子には叶わせたいのが切ない望みゆえに・・・」
言われる言葉に、汐戸は胸が張り裂けそうになる。
「この汐戸もひたすら姫君御誕生をこそ願わしく。北の方お九つの折よりお付きいたした身には、やがて北の方に瓜二つのお美しき姫御誕生とあれば、北の方お生まれの時よりお育てしたと同じ心地でお抱き出来て、どのように嬉しゅうございましょう」
と、それを夢見る愉しさに満ちて言い続けながら ── ふっと不安におびえたのは、北の方も汐戸も姫誕生を望みのは、必ず北の方にそっくりの眉目うるわしく気品をそなえた姫が生まれると信じてこそであったが、もしも・・・隆房少将の顔に似た姫であったらと思うと、眼の先が真っ暗になる。たとえ男児誕生であろうとも、あの見るからに好色な容貌の和子であったら、北の方はどのように絶望なさるであろう。
それを案じると、汐戸はもう落ち着いて居られぬ不安に駆られた。さっそく明日からでも御利益あらたかなる清水きよみずの観音堂に長い坂道を登り詰めて参詣し、なにとぞ北の方に瓜二つの姫御誕生をと合掌して、祈願を込めねばと気が気でない。
汐戸は北の方には内密でひそかにそれを実行した。
2020/12/15
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