~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
人 の 音 せ ぬ 曉 に (二)
世尊寺夫妻は娘奈々を大江広元の妻にと思いついたこともあったが、それは、すでに広元が最も親しき友三善康信の従妹の雪と婚約を交わしたので実現に至らなかった。しかしその後、思いがけず清盛入道の息女徳姫の入内に奈々が宮中女房に召されてゆくことになった。召名めしなは曾祖父の官職だった右京大夫(右京庁の長)を名乗ったのは、内裏に仕える女房たちが、いずれも父や祖父たちの官職名を召名にする例にならったのだった。
伊行これゆき夫妻は平家の姫たちの読み書き、歌道と筝の指南を受け持った縁から、わが姫の内裏の中宮付きの女房に召されたとなって、いよいよ深く平家へのつながるえにしが深まったのを覚えると、それにひきかえ、あの大江広元は伊行の推薦で祐姫の漢学の師に通い、清盛の北の方時子にもいっとき信任を得たのに、はからずも祐姫との悲恋の結果、まったく平家との縁は断絶の形となっているのを悲しまずにはいられなかった。
その広元のためにせめてもの助力として七条修理しゅり大夫だいぶ藤原信隆の嗣子信清の学問の教師に斡旋した甲斐あって、広元は信隆の後援によって六条の千種ちぐさ殿の木賊とくさ生い茂るささやかな地に新居を得た。
それはいかにも若き学究者の生活にふさわしい書斎中心の小じんまりとした家屋をと、修理大夫が設計したものだっった。小庭の木賊もところどころに大小の石を配して、じょれも風雅な眺めの木賊の庭としたのが修理大夫の自慢だった。
この新居で広元と雪の結婚式が行われたのは、西八条の館で寛姫と摂政家の嫡子元通の盛大な挙式のあった五日後だった。
少納言局少外記しょうげき大江広元の妻を迎えるのはまことに簡素な形式だった。披露の宴も質素で、新夫妻の身内と修理大夫信隆とその子信清、そして世尊寺夫妻、その他二、三は勤め先の上司の大外記と部下の史生の代表者だけだった。
花のない木賊の小庭を前のこの小家屋のいちばん広い間で、式も披露もいちどにに行われた。
伊行の妻夕霧はその日の祝いに筝を持参して、目出度き調べを奏で興を添えようかと伊行とも相談したが、“筝”となると広元に祐姫を思い出させる怖れがあるので取り止めた。
ところがそうした事情を知らぬ修理大夫信隆は、その夜夕霧に向かって、
「かねてきこえし筝の名手ここにおわしながら、今宵の祝いの一曲をただ耳に出来ぬはなんともの足りぬ思いよ」
と言うので、夕霧はその微妙な説明もしかねて困った。
すると風流人の信隆は、
「では、この身共がもっとも好める今様をもってめでたき今宵の祝儀といたそう」
と声音ゆたかにうたった。
   仏は常にいませども、
   うつつならぬぞあはれなる、
   人の音せぬあかつき
   ほのかに夢に見え給ふ
一座はしいん・・・と聞き入る中にも、花嫁の雪の初々しい清純な双眸にふと涙がにじんだのを見出した伊行は“広元どのは優しく思いの深い女性を得られた”と思った。
当時、今様と呼ばれていたこうした歌曲の系統は仏教、神事、民俗の歌謡曲で、その歌い手は白拍子とか旅芸人のたぐいだったのが、後白河法皇が熱中されてから民衆の中での流行歌が貴族の間にも侵入して、やがてみやびな音律化したのだった。
婚礼の席で“仏”などの歌詞のある今様は縁起が悪いようだが、この歌詞はむしろ神聖に清浄な感銘を与えて、いかにも広元と雪の新郎新婦にふさわしかった。そのための一座の男女の客が声を合せて、この今様をもう一度合唱した。
その宵は、特に灯火もいくつかならび、その明りがさす小庭の木賊の群落は緑青を濃くして花なき庭を神秘に見せ、家の中からは、
    人の音せぬ暁に、
    ほのかに夢に見え給ふ
と、あわれに余韻を残す歌声がひびく。
2020/12/16
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