~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
人 の 音 せ ぬ 曉 に (三)
伊行の妻夕霧は修理大夫信隆の娘殖子に筝を教えに日をさだめて通う。
しかし信隆は子息の信清には、ものを学ぶ師をわが邸に通わせては学問が身に沁まぬと言って、広元の許へ通わせる。千種殿の木賊の庭に広元の新居を造ったのもいわば息子の教室にもなるからだったとも思える。
けれども、娘の稽古事の師はわが邸へ招くのは、男の子と違って公家の娘はたやすく外出は出来ず、深窓の姫として置かねばならぬからだった。
殖子は明けて十三歳、亡き母大蔵卿通基みちもとのも麗人だったので、母ゆずりの美しさに加えて少女ながら賢く大人びているのは、甘える母がなくて育ったせいであろうか。
その日も夕霧は筝の稽古の終わったあと茶菓でもてなされて、ひととき殖子と語り合う。
「先日の大江広元殿の御祝言の席で、父君はおみごとな今様をおうたいになりました」
夕霧はその印象が強かったので思い出して告げると、
「父もあの夜帰ってから思いがけないほど巧みにうたえたと大自慢でございましたから、わたくしは申しました。“このつぎは父上の御祝儀におうたいあそばせ”と・・・」
殖子が言うと、夕霧は思わず声をあげて笑わせられた。だが殖子は笑いもせずあまりに真剣な顔なので、ハッとして息を呑んだ。
「父が長いこと鰥夫やもめで居りますのは、この殖子に継母ままははを持たせるのを憐れんでのことかと思いますと、父に気の毒でなりませぬ。それゆえわたくしは近いうちに後宮のつぼねにあがるつもろでございます。伯母上 ── 亡き母の姉上が典侍てんじであがって居りますから、わが許へ参れよとかねて申されます」
夕霧はしんみり・・・・と聞き入る。この十三の少女が父の再婚を妨げまいとして、わが家を離れて宮中の奥向きの後宮の局部屋にいる伯母の許へゆくと心さだめたるを聞かされると、感傷的にならずにはいられぬ。
「なにも、それほどにお考えにならずとも、たとえまましき仲の母上を迎えられても、その方のお心正しければ御不幸とは限りませぬ」
「いいえ、それを怖れて後宮の伯母の許へあがるのではございませぬ。父はいずれ娘を内裏へと望んで居ります。また父ののちぞいの北の方が迎えられる時、兄は男の子ゆえお気が楽でしょうが、娘はやはり気まずいと思われますゆえ」
そこまでおとなの神経をおし量る殖子のなかなかの聡明さと、しっかりした根性を知った夕霧は、
「それではもう間近に父君は北の方を迎えられまするか」
もうその問題が生じているのかと察した。
「いいえ、そのようなお話はまだございませぬが、父上がよき北の方を迎えられるとわかりましてから、安心してわたくしは伯母上の局部屋へ入りとうございます。さもなきうちにに娘のわたくしが父の傍を去りましては、さぞ父も兄もさびしかろうと気がかりでなりませぬ。夕霧さま、そのためにも父の後添いの北の方、どこぞによきお方あらば父におすすめ下さいませ。お願い申し上げます」
何から何まで、大人も及ばぬこの少女の才覚に夕霧は驚かされ禹る。まことにこの年少の才女はわらわと呼ばれて伯母の局に仕込まれ、やがて掌侍しょうじに典侍にと進み、後宮の美しき才女となって頭角を現すにちがいなしと、空おそろしい気さえした。
それにしても、殖子がそれほどに父の為に後妻を求める心根に対して良人の伊行と共に力添えをしたいとは思う。
2020/12/16
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