~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
い か ん せ ん (一)
── 六波羅の牡丹も散って、すでに夏めく陽ざしの五月中旬のある日、平安朝からの貴族の慣例で、産婦とかしずく侍女たちことごとく白一色の衣を身につけた清浄な産室で、初産婦のゆう子はその日の暁に男児の母となった。乳母の汐戸はかつて平家の末姫典子の産婆役をつとめてはいたが、念のために西八条の館に乞うて、名医丹波一門の当時の産婦人科にすぐれた老医も用意したが、その心配もいらなかった。
冷泉れいぜい家の嗣子ししが平清盛の血統を受けて生れたのを隆房は功利的に喜悦して喜悦して、産婦の枕もとで“お手柄お手柄”と言ったが、北の方佑子は落胆していた。待望の姫ではなかった。わが叶わざりし此のうつし世の美しい夢を、その姫には実現させたいという望みは消えたのだ。
「今宵とらこく、北の方に若君誕生。御母子おしこやかにおわしまする」
とも口上こうじょうを、冷泉家の家従が西八条に馳せ参じて伝えた。
「それはめでたい、この外祖父の血のつながる孫じゃ、父隆房よりはるかに質すぐれし人物にならねばならぬぞ」
清盛入道も、その孫が父似よりは自分に似ているのを喜んだ。
「祐姫さまの賢さを受ければ、たのもしき公達きんだちとなりましょう」
時子も母系の方を信頼している。
西の対に、今はただ一人の対屋の姫として残る典子に安良井が、
「祐姫さまに今堯和子がお生れてございました」
と告げると、典子は不機嫌に眉をひそめて、
「まあ、なぜ姉君はあのいやらしいちん殺しの子などお生みになるのであろう。あなうとましや!」
と言って顔をそむけた。すでに佑子がみごもったと聞いた時から、悪感情を持っていたのだった。
── 冷泉家の嫡男は隆衡たかひらと命名された。誕生直後はまださだかでなかった児の眉目のさまも、日に日にはっきりすると、
「やれうれしや、北の方に生き写しのお顔、さぞかし美男子にお育ち遊ばしましょう」
汐戸は胸を撫でおろした。姫ではない若君だったが、ともあれ母君に面ざしの似通うのも、これひとえに清水観音の御利益と遠路を詣りし甲斐、とありがたい思いだった。
── 初生児への最初の哺乳は、宮廷でも母后や女御もなさるので、中納言冷泉家の北の方佑子はもちろんわg乳を含ませたが、それも当時の貴族作法で、へそ切断の式が行われて後生児の口腔を清浄にして、甘草湯かんそうとうを含ませ、光明朱という紅を小さな唇に塗ってから、母の乳首を吸うのだった。
生れ落ちてまもなく尼寺に ── 遂に生母を知らぬ佑子は、いま母となってわが生みし児に乳首を含ませる時、思わず涙さしまぐれや。
叶うことならこの母の乳だけで育てたいと願ったが、上流階級の家庭の習わしで乳母めのと採用の慣習があり、母の乳だけで育てるのは卑しい育ちの経歴となる。
わg美しき妻の完全授乳には、まず良人の隆房が絶対に反対だった。
「しもじもの賤民の妻のように子に乳を吸い尽くされては、女のあたら美貌がおとろえるわ」
と言うのが、いかにも好き者らしい理由だった。
汐戸はかねて乳母については心構えがしてあった。それは六波羅の平家武士団の若い郎党草刈部くさかべ太郎の妻が、かつて西八条奥の侍女を勤めた気質のよい者で、ちょうど目下乳呑児を持っていたからである。
それが冷泉家へあかり、侍女時代の呼び名の小藤として隆衡の乳母についた。
こうして汐戸は、冷泉家の北の方の周囲をさながら平家の勢力でかためるかのようだった。
生誕直後の産着は用意された白絹一色の産着を着せるが、これは生母の懐胎中の いわた ・・・ 帯の白絹を縫って用いるのが平安期のならわしだった。
七夜 しちや に初めて着衣 ぞめ があり、この日以後は色の付いた綾絹を着るのだった。その着衣初のものは西八条の時子から阿紗伎が使いで持参した。
いまだ母子共に産室にこもられるので、汐戸が応対すると、型の通り嫡子生誕の祝いを述べたのち、特に西八条の母君から北の方佑子へのことづけを、阿紗伎は伝えた。
「御出産後の御休養ゆるりと遊ばされた後、西八条へ若君とお越し戴き、若君と入道さま、北の方の初の御対面遊ばされたき儀仰せられました」

「その仰せまでもなく、お産後のおん養生あいすみますれば、さっそく若君をお眼にかけにと、この汐戸もその日のお供を愉しみにいたして居ります」
「なんでございましたら、近いうちに西八条から北の方がこちらへとも思召されたのでございますが・・・」
「いいえ、いいえ、それでは御の佑子さまが気をお使いになって、かえって・・・」
汐戸は手を振らぬばかりだった。清盛入道の北の方ともなれば、普通の武士の家庭のように実家の母が孫を見に娘の婚家へ駆けつけるという気軽い事も出来ず、万事が大げさになって産婦も神経を使う。ことに佑子の場合のように、はっきり育ての義理ある母とわかっているのでは・・・
その間の微妙な関係は阿紗伎と汐戸の間に言わず語らずに相通じる。
「それではいかがでございましょう。 五十日 い か のお式ののちに御母子ともにお伺い遊ばすといたしましては・・・」
生誕五十日目に、乳児に初めて 重湯 おもゆ に餅を入れて父親が 木匙 きさじ で汁を与える形式が、貴族間で行われる。乳児が小児に成長する祝いだった。それ以後、少児は乳母に抱かれて宮詣りにも外出する。
「おお、それがよろしゅうございます」
産後の回復は約一ヶ月としても、乳児が牛車にゆられての外出は、五十日の式後が適当と認めねばならぬから、阿紗伎はうなずいた。
じつは時子はもしかしたら孫の顔よりも、急いで佑子に会って頼み込みたい事があるのを知っていたが、なにしろ産後まだ日が浅くてはいたし方がなかった。
2020/12/18
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