~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
典 姫 婚 儀 (一)
初秋の空が青磁色に晴れた日だった。
大江広元は七条坊城の修理大夫信隆の邸を訪れた。
それは広元を学問の師と仰ぐ信清少年から「父が近日にお会い致したき事ありと申しました」
と告げられたからである。
まもなく官庁賜暇しかの今日、彼は七条に赴いたのである。その住所の七条を号にして、信隆は世に七条殿とも言われた。そのあたりの広大な土地を占めた林泉に鶴が飼われてある。
その庭を見渡す広間に広元は通されて待つと、まもなく信隆は現れた。いつもの洒脱しゃだつな風格が身に付いた態度で、
「やあ、これはお呼びいたして御足労を煩わして申し訳ないが、このたびはぜひ貴君に御相談したい事が天から降ったように、こに身に起きてのう」
「これはいかなこと、若輩のわたくしなどに御相談とは」
広元は驚かされた。
「いやそれどころか、あの庭先の鶴たちにも相談したい事じゃ」
信隆の眼を向ける庭の広い池辺には、その水晶のような清冽な秋の水の中に、餌の小魚をあさって丹頂の鶴が群がっている。
「広元殿、あの鶴たちのおかげで、なんと大相国入道の姫君がこの邸にぜひとも輿入れしたいとの御意じゃ」
信隆は磊落らいらくな笑い声をたてる。
平家の娘 ── それは広元にとって美しくも哀しい名称である。
「まず、順を追って事の次第をお話しいたそう」
信隆は奥から老女が主人の好みで運んだ一碗の茶を喫した。茶道の作法はまだ確立せぬ時代だったが、宋風の茶を健康剤に日々用いることは、すでに京の寺院の老僧たちの間で行われていたので、風流人の信隆もそれを生活に取り入れた。
客の広元はなんとも薄気味悪い青い液体の泡立つ碗をもてあましていた。
「── じつは、もうだいぶ前にあの世尊寺殿から、平家の六人姉妹の末の姫をどうであろうと再婚をすすめられた。清盛入道北の方もそう望まれると聞いて仰天した。あまりにも思いもかけぬことでな。なにしろ一の姫は花山院家へ、二の姫は摂政家へ、いまの白川殿よ、三の姫は冷泉家、四の姫、これはやんごとなき今上きんじょうの中宮よな。そして五の姫はついこの春のこと摂政家の嗣子へ嫁がれた。そのあとに残る典姫をじゃ、この老骨のしかも万年修理大夫で満足いたす男とあっては、姫君たち四人の婿殿に比べてあまりに見劣りする将来の望みもない老人が、恥もせず平家の姫をまんまと頂戴して悦に入るわけにはまいらぬ。そうであろう広元殿、よって恐縮して御辞退つかまつって、ほっと胸撫でおろした次第よ」
── それを聞き入る広元は七条修理大夫の欲のないすがすがしくさわやかな見識に感服した。
「ところがじゃ、それで事は終わらんなんだ。つ先日、娘の殖子の筝の師の夕霧殿 ── 広元殿も御存じであろう。良人世尊寺殿と共に西八条の対屋の姫君方のこれまた筝の師だったそうな。その夕霧殿から冷泉家北の方がこの老骨に内密に会いたいと仰せられたと聞かされた時は、これはまた何事かと打ち驚かされたが、いやおうもない。そのあしたなんと夕霧殿同伴で糸毛車がわが邸の門に・・・さて初めて見る冷泉北の方は容顔無双、しかももののあわれのほのかに匂うごとく、えも言われぬ風情、この信隆年齢とし甲斐もなく恍惚として思わず平伏したわ、ハハハ・・・」
修理大夫はてれ・・て笑うが、広元は胸がうずく思いでうなだれた。
「という次第でな、なんともその北の方のお口から ── 不束ふつつかな妹典子なれども、鶴の群れ遊ぶ七条修理大夫家への輿入れを喜ぶ姿のいじらしく愛らしく、それが叶わぬといかで知らされましょう ── と妹君へのなさけこもれる美しき双眸で見詰められると、もはや進退窮まって敗亡はいもう、されど、いったん辞退申せし縁談、しばらく御猶予願ってな。ところで広元殿はあの麗人が西八条の姫なりし折、漢学を教えられしと夕霧殿が言われたが・・・」
「少納言局に仕官まで、しばらく御教授いたしました」
広元は鬱然うつぜんとして言葉少なく答える。
「おお、白楽天の詩篇を見事にそらんじらるると世尊寺殿がいつぞや言われた姫はあの北の方か、さもあろう、眉目うつくしく心ばえも人にまさると見えた ── さてこの信隆をみごとに敗亡させてお帰りの折、今日伺いしはまったくわたくし一人の考え、他にはおもらし下さるまじくお願い申すとな、思うに陰で姉君の配慮があったでは、その妹姫の面目にかかわるとの心づかいもゆきとどく優しさ、この姉君を持つその典姫は仕合せものよの」
広元は黙然としていたが、彼の心の記憶の底にいま浮かび出るのは、かつて祐姫の机の傍に来て“亀の字は亀の形”などと無邪気に口を出した可憐な童女の典子だった。その妹君をいまも心にかけて愛される、冷泉北の方のためにも助力したい ── かつての恋人へのせめてもの心づくし・・・と広元は切なく思う。
「広元殿、今日御足労をかけたのは、その鶴を飼う邸へ輿入れしたいと願われる、ちと風変りのその姫を、西八条で御存じであろうと思うてな」
「よく知って居ります。御姉妹のなかの末とて、母君の溺愛はことのほかにて、それゆえにいつまでも童女の如く無垢むくで愛くるしい限りです。思うにこの姫が世の常の公達きんだちに嫁がれては、なかなかに納まりがたしと案じられます」
広元の言葉に思わず膝を打った修理大夫は、
「そ、その通りの同じことを冷泉北の方も申されたわ。なんとさようか、それでこの老骨に孫にも紛うその典姫を迎えてほしいと・・・」
「御当家へ嫁がれるが、典姫のお仕合せと思えばこそでございましょう」
「智能衆をぬきんずる広元殿もそう判断されるとあって、この身も心さだめたが、さていささか困却つかまつるのは、典姫の婿ともなれば、あの冷泉北の方の義弟に身共が当たるはよいが、なんと義弟が少々老いて居るのが恐縮至極よ。すでにこの夏に和子の母君になられたというに、清らかに臈たけて美しいわが義姉あね君よな」
修理大夫信隆が諧謔かいぎゃくを弄するその言葉のなかの“和子の母君”が広元の耳を貫いた・・・かつての相思の恋人、いまも心の底深くその面影の沈殿しているその人が、あわれすでに“母”となったとは・・・いままで知るを得なかったが広元は、眼がくるめく思いだった。
挫折した恋ゆえに思いはさらに深く、わが心魂にかくも傷痕を止めているのを、その日広元は知って悄然とした。
だが、彼はわが身が世の凡庸ぼんようの人のごとく、いたずらに感情肥大に陥るのを歯を喰いしばってbも押し止めねばならなかった。
七条修理大夫は、彼が尊敬するこの秀才の好青年が、あの冷泉北の方と相思の間であったとは露知らない。それほど広元は、彼の眼には学問一途の冷徹な青年、理智的に身を処し、およそ男女の恋愛騒ぎなど児戯に類したことと見る型と映じていたのだ。
もっとも広元は恋に破れて以来、自分を鍛えようとした。男女の愛も親子の愛も要するに我執だと信じたかった。女性に執着するなら利己的な残酷な愛し方を男はせねばなるまい。男女はそのどっちかが被害者になるだけだ。これが広元の身を持って得た恋愛被害論で、それによって彼は過去の恋愛という我執から生じる被害からの解脱げだつを願っていた。
それゆえに、信隆のような人物にも、広元は冷徹と理智でかたまり、しかし心は優しく、たのもしき若き智識人として大いに認められていたのだった。
── その日の広元は、信隆の前ではけっして見破られることなく心の動揺を抑制したが、その門を出れば、たどる大路を吹きぬく真昼の秋風裏に、初めて心さみしき若者の素顔を見せもするのだった・・・。
2020/12/19
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