~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
霊 鳥 (一)
七条修理大夫の邸は建物よりも庭園が広く、大きな池の水の上には三つも浮き島がつくられ、そこに木の枝やあしを積んで鶴の巣籠りに備えられてあった。その島も鶴が遊ぶためだった。
家屋は正面の寝殿と透渡殿すいわたどので連絡するたて長の東の対、そして古びたままの北の対屋だけだったが、家族の少ない生活はそれでも余裕があった。
その東の対は信清と殖子の姉弟の居間に分けられてあったが、姉の殖子は父の再婚前にすでに後宮の伯母の局部屋にわらわとなって出仕した。彼女が父の後妻 ── 自分の継母の典子に対面したのは、父の婚礼後の露顕の宴に伯母の唐橋の典司てんじに連れられて来た時だった。
修理大夫邸は平家の娘を北の方に迎えるに際して、母屋おもやの寝殿の裏に当たる壺庭に向かう北の対を北の方の居間とする在来の習慣を捨てて、東の対の先に新築した北の方の居間は、鶴の一群を飼う屋根付きの広大な金網囲いをめぐらす南庭に面していた。
その北の方の居間、寝所のほか、化粧所けわいどころ出居でい(客間)、侍女控え間等の付属間数で相当の広さのなかにも入り切れぬほど、西八条から運び込まれた善美を尽くした家具調度、屏風、凡帳g溢れた。
姉君たちの輿入れの荷もみなそれぞれ平清盛の姫として豪華なものだったが、母の時子の末の姫への愛着はまた格別で、牛と牛飼いを付けた新しい牛車も姫の持参だった。そして輿入れにお供して婚家の北の方付となる乳母安良井と共に、西八条の侍女たちが十人、雑色二人が付けられた。
姉の徳姫の入内にも世尊寺夫妻の娘奈々が右京大夫の召名めしなで仕え、西八条のよりぬきのすぐれた侍女が、入内後の身辺の雑事に仕えるために針女しんみょうまで入れて二十人ほど、下仕しもづかえの雑色たちも六人お付きしたが、それは皇居の後宮にである。それでもかつての藤原道長のむすめ彰子の入内についた侍女の数のなかばである。
ほかの姉君たちの婚家に連れられた侍女たちは、典姫の時よりみな数少なかった。それは単に母時子の末の娘への溺愛というより、この母の過保護が災したかのように、わがままの向こう見ずの油断のならぬ小姫ちいひめに、結婚後の北の方としてあやまちなく日を送らせたいための用心だった。
そうしたおおげさな実家からのお供付きで婚家に迷惑をかけぬためには、北の方の付き人の扶持ふちも給与も平家から典姫持参の荘園の収入が当てられていた。
ともあれ、こうして七条修理大夫の北の方の対屋は西八条の館の一部分が姫を中心に引き移った感じだった。
あるじの信隆はそれくらいは覚悟の上だったが、今までその主の殿がながらく鰥夫やもめ暮しの歳月、この邸の奥一切を取りしきって家従たちの上にも権威を持っていた老女更科さらしなは、先夫人大蔵卿通基女の輿入れに、十代の侍女として付いて来て以来の献身的な奉公だった。彼女は殿が鶴を飼う以外は簡素な生活を知っているだけに、平家の娘を迎えてからの、ものものしい邸内の生活様式に重圧を覚えた。
いま北の方(現夫人)お輿入れ後はわが身は何をいかにしてよいやら途方に暮れるの」
とつぶやいて、亡き北の方のおわした北の対の古びた仄暗い控えの間にさびしく引き籠りがちで、従って前からの侍女数人もさながら失職した形でまごまごしているばかりだった。
それが ── 西八条からの安良井や侍女たちには、この邸の古参の老女以下が一団となって、今北の方に付いて乗り込んで来た者たちへの無言の抵抗、いわば意地悪の意志表示にみえる。
安良井は困り果て、こうした場合にまず頼りにする母の汐戸に相談のふみをこまごまとしたため、これも西八条から連れて来た信用の出来る雑色に持たせて冷泉邸におもむかせ、汐戸にじかに手渡しせよと命じた。
汐戸は娘の文に吐息したが、これは自分の才覚に及ぶところあらず、ほかならぬ典姫輿入れの七条修理大夫邸の奥の雰囲気のただならぬようすとあったは、北の方佑子のお智恵にすがらねば・・・と仔細をひそかにお耳に入れる。
「あちらのお奥を取り仕切っていられた老女更科は、清げに枯れた心いく人ではなかろうか」
佑子は典子輿入れの尽力に夕霧を伴て訪れた際、もてなしの茶を運び、主客の用談をさまたげぬようすらりと立ち去るもの腰など、あなどりがたい気質に思えたからである。
「さようでございましょうが、心足らぬ安良井は勝手わからぬ他家へ御奉公として古参の人たちへの仕向けがわからぬままでは、お輿入れをなされてまもなき典姫さまのおためにも一大事と案じられてなりませぬ」
汐戸は気が気でない。
「いずれ典さまがお輿入れ後、しばらく落ち着かれてからおたずねいたすつもりであったが、汐戸、それを早めて明日にも・・・」
2020/12/21
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