~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
霊 鳥 (二)
典子の嫁ぎ先へは必ずたびたび訪れると約束を交わした通り、姉の佑子の思ったより早い訪問に、七条修理大夫の北の方と言うのが、まだどうにも身に付かぬ妹は、ひとかたならぬ喜びようだった。
佑子のお供の汐戸の顔もなつかしく、それを迎える安良井も侍女たちも、いずれもみな馴染みの顔ばかり。
「まあ、これではせっかく信隆卿がこのたび御新築の北の方のお棲居すまいも、さながらお里の西八条の西の対そのままよな。これでは典さまこの邸へお輿入れなされた甲斐もありませぬの」
姉君の冷泉北の方は呆れたように言われると、典子もいまさらに周囲を見まわす。
「仰せの通り、祐さまもお見えになってなおのこと西の対となりました。さあそれでは貝合せも・・・」
そういう典子がまったく西八条の対屋の小姫ままである。
「貝合などのお遊びより、一日も早うこの邸の北の方となられませ。この木の香も新しい北の方のp棲居どころにふさわしい方にならねばと、西八条の母君もさぞお案じでございましょう」
姉に言われて、
「それでは、いかがいたせば北の方という者になれましょう」
「それはこの邸に昔より仕える老女更科がお教えいたしましょう。その更科をここへ、安良井」
安良井はまだ馴染まぬ苦手の人を呼びに立たねばならぬ。
ほどなく更科が現れた。
「冷泉北の方のお越しとただいま伺い、まあなんと御挨拶にもまかり出ず、まことに不調法いたしました」
と広間の板敷に平伏する。立居振舞いまことにすぐれて居る。この人が仕えた先夫人はおそらく妹典子のように、あまりに幼げな人ではなかったろうと佑子は思う。
いま更科の姿を見るなり、その幼き今北の方の典子は唐突に言い出した。
「更科、いかにいたせばこの邸の北の方にふさわしい身になれようか教えてたも」
この無邪気きわまる質問を今北の方から突然浴びせられ、更科は驚きたじろいで言葉もない。
「このように古参の御老女を頼りにされる妹典子をなにとぞお頼みいたします」
冷泉北の方はねんごろに言われると、
「汐戸、あの品をこれへ」
汐戸は用意の綾絹あやぎぬの巻物を白木の台ににのせて、更科の前へしずかに押し進めた。
典子の入輿の日すでに古参の家従や更科や侍女たち一同に北の方よりのお土産としての贈物はあったが、さらに今日は今北の方からの心づけであった。
冷泉北の方はさらに安良井以下の侍女たちを見まわして、
「このお邸の御歌風を早う身につけるよう古参の人を見習うを怠らぬように、安良井初め、心がけねばなりませぬ」
その言葉のあとに汐戸は、
「更科どの、この安良井はわがつたなき娘、北の方にはお乳をあげし御縁にてお輿入れにも付き従うてこちらに御奉公、なにとぞようおみちびき下されて、北の方のおために何事も心を合せておはからい戴きたくお願い申しまする」
こうなると更科も、もう先夫人の北の対の奥に引き籠っては居られぬ。
「祐さまに鶴をお眼にかけねばならぬ。ここで眺めるよりは庭にまいりましょう」
典子には自慢の鶴である。それ故に修理大夫信隆の北の方にどうでもなりたかった彼女である。
鶴はこの国を春に飛び去って、北方(シベリア)に去り、秋にまた群れを成して帰るならいだったが、鶴の種類でも絵によく描かれる丹頂は、京都の貴族の庭でも留鳥として飼育され、初夏に卵を生み繁殖もするのだった。
その鶴を見に庭に降りる姉妹に汐戸も付き添って従おうとするのを、冷泉北の方は止め、
「汐戸や安良井は更科どのと親しく語り合うがよい」
と彼女たちと古参の老女更科との意思疎通の融和をはかるのに、あくまで心をくばられる。
若い侍女二、三人をお供の庭への道すがら、典子は良人の信隆卿から仕入れたらしい鶴についての智識のあらん限りを姉に語る。
「鶴は姿が上品で美しいと同じように、心も立派な鳥と初めて典子は知りました」
「え、鶴の心・・・」
美しい鳥の精神とはなんであろうかと佑子は首をかしげる。
「鶴は一夫一婦をかたく守る鳥でございますのよ」
「まあ、一雄一雌の立派なお行儀! それでは『書経しょきょう』にある“人間は万物の霊長”は嘘で、鶴こそ“万物の霊鳥”」
佑子はたんじた「書経」は中国最古の経典だが、そこだけまちがっている気がする。
「ほんとうに人間の雄はみなお行儀の悪いこと」
と典子はおどけて言う。わが父清盛も姫たちには優しい父だが、時々お行儀はよくない。姫たちが噂で聞いただけでも、常磐だの厳島の内侍ないしだの、そして白拍子の妓王とか仏御前とか・・・。
「信隆卿がその鶴の心が立派だとお話しなされましたか」
姉に問われて典子はうなずき、
「え、われらは鶴のような女夫めおとでなくば庭の鶴のあざけりを受けようからと仰せられました」
と嬉し気に告げる。
「まあ、羨ましいこと。そのありがたきお方のよき北の方になられませよ」
姉は妹のうちぎに肩に手をかけて心をこめて言い含める。
── 池のほとりに立つ鶴、網の囲いにこもる去年の夏かえったひな鶴、さまざまの姿のみな美しい生態を見て姉妹の庭のそぞろ歩きにときが移る。
2020/12/22
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