~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 の 象 徴 (一)
七条殿の鶴の庭に大きな幹の数本の遅桜が、ゆく春の名残を梢に色濃くとどめて咲きそめた。
北の方典子はその庭に姉のゆう子をぜひとも招きたいと望んだ。それは花を見せたいだけではなく、もう一つの計画をひそかに抱いていた。
大江広元 ── その人を同じ日に招いて、鶴と遅咲きの花の宴で姉の佑子に会わせたい念願だった。
それが姉君のために最上の贈物だと典子は信じる。
鶴あそぶ遅桜の花蔭に姉君と広元を二人だけにして、ほかには誰も近付けまいなどと考えると、自分まで愉しくなる典子だった。
けれども、この“はかりごと”は両人には絶対秘密でなかれば・・・。
典子はまま息子に言った。
「信清どのの学問の師大江殿を近くお招きをいたして、鶴の庭にいま盛りの遅桜をおめにかけたいが、いかがであろうか」
「それはお喜びでありましょう。母上を広元殿は西八条でよう御存じで、信清どのには心優しく無邪気な姉君となられるよう、仲むつまじくされよ、と申されました」
はきはきと答えるこの学問好きの眉目清秀の少年は、典子と同年である。広元の言うように母というよりは姉と弟のようで、末っ子育ちの典子は弟というものを持ったことがないので、嫁いで以来おのずと仲よしの姉弟のようになっている。
信清は師の広元が官庁から帰宅してからの時間に教えを乞うので、帰りは夕暮れになりがちで、その行き帰りに翁の面のように白い顎鬚のもり役が供をする。
その翌日、春の日長を、灯をともし頃となって帰宅した信清が姉ともまごう若い母に告げた。
「広元殿は次の賜暇しかの日にお見えになると申されました。この庭の鶴をいつぞや御覧になって興味を持たれて、その生態の智識を得ていられます。一雄一雌の鶴が卵だけは一腹二卵などと ── あの脚の長い鶴がかえる卵はどれほど大きいのか、蹴鞠けまりの鞠ほどもあろうかと問われました」
信清は笑った。
「まあ、蹴鞠の鞠・・・それではこの夏、卵を生んだ時おめにかけましょう」
典子もまだ鶴の卵は見たことがない。
── ともあれ、大江広元に久しぶりに会える。あとは冷泉北の方の代らぬ美しい姿を同じ日に迎えることだ。
広元の出仕公休の日は二日のあとということである。
一刻も早く姉をその日に招待することを約束しておかねばならぬ。もう夜ではあったが安良井に供の雑色をつけて冷泉家へ向かわせた。
「夜分のことゆえ、汐戸に伝えおくがよい」
と典子は“明後日、遅桜を眺めにお越し願う”との口上を授けた。相客は大江広元などと、おくびにも知らせることは出来ない。当日、思わぬ伏兵に姉がどんなに・・・典子は姉のために大いなる心づくしと、その秘密の計画に自己陶酔のかたむきだった。
── やがて安良井はお使いを果たして帰った。
「母の汐戸は、いつぞや七条殿北の方がお見えの折にお約束遊ばされたので、そのうち伺いたいと仰せられるゆえ、必ずお越し遊ばされようと申しました」
この報告に典子は勇み立った。
2020/12/24
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