~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 の 象 徴 (二)
冷泉家では汐戸がひとり合点で返事をして、使いの安良井を帰してから、北の方佑子のもとに出て告げた。
「ただいま、七条殿北の方よりお使いにて安良井が参り、明後日、お庭の遅桜をお眺めにぜひともと申しまするゆえ、必ずお越し遊ばされまあようと申し伝えました」
「この夜分にわざわざ使いとは、そのような事情なら明日でもよいに・・・」
佑子はけげんな顔であった。
「典さまの御気性で思い立たれると、さっそくお使いなのでございましょう」
「その日は、御自慢の鶴と桜を御披露の宴で、数多くの客設けをなされるのであろうか」
「さようなことは安良井は存ぜぬようでございましたが、わざわざお招きあるからには、ほかにお客さまもございましょうかと思われます」
佑子が何も言わぬので、当然その日は七条殿へ行かるると汐戸は思い込んだ。
── その明後日が来た。
汐戸は今日はお出かけ、お招きの客がほかに幾人かあるやも知れずと思うて、今日お出ましの北の方の御衣裳は念入りにと、朝からその準備をして待つと、いっこうに佑子は出かける支度にとりかかろうともせぬ。
「そろそろお出ましになりませぬと、あちらでお待ちかねでございましょう」
牛車ぎっしゃの準備もあうでに手配されている。
「汐戸、今日は参らぬゆえ、この文を持たせて七条北の方に早うお届けいたすよう」
すでにこの朝したためてあった折紙ちらしがきの文を佑子は文箱ふばこに納めて汐戸に渡した。「えっ、これはまたなんとなされて」
汐戸は途方にくれる。
「せっかくの典さまのお心入れありがたくは思えども・・・この文御披見あらばわかりましょう」
ともあれ、北の方の意志には逆らえぬ。汐戸がその文箱を手にして打ちしおれている姿に、佑子の優しい心は打たれて、
「汐戸、そなたにも何も言わずにと思うたが、この振舞、がてんのゆくよう申そう。今日の典さまの御趣向は鶴や花のほかに、御子息の学問の師大江広元さまをこの佑子のためにお招きなさると思われます」
・・・汐戸は思わず息を呑んだ。
「七条殿の庭ざくらは年々春におくれて美しく咲きましょう。やがて散りはててもまた来る春ごとに変わらぬ花を・・・さりながら人には過ぎ去った昔の春がふたたび訪れようはずはなし、・・・わが身はすでに一人の和子の母、広元さまも御令室を迎えられたと聞きました。その二人がいまさらなんとしよう・・・いくたびお逢いしたとて返らぬ日は立ち戻らぬ、そのかなしみを知るだけ。それよりも、広元さまを漢学の師と仰いで文机に向かった佑子のあの頃の姿を広元さまのお胸にとどめておきたい。佑子もあの方が小二条のお邸の書庫脇にて御勉強の一学生がくしょうの面影を永久とわにそのままに秘めておきたい、汐戸にこの道理がわかろうの」
「は、はい・・・」
汐戸の眼は早くも濡れる。
「この文は雑色に持たせてやりや。そなたが持参いたせば典さまから何故むりにもお連れいたさぬかと、お叱りを受けようも知れぬ」
「はい、仰せの通りにいたします」
汐戸が文箱を両手にささげて退った時、晩秋のその日の空模様は曇って来た。
2020/12/24
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