~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 の 象 徴 (三)
七条修理大夫しゅりだいぶの邸では典子がその日は朝から客を待ち受けていた。
広元さまが先か、姉君の牛車が入るのが先かなどと考えても、胸がわくわくする。
「ただいま、冷泉家北の方からのお文が届けられました」
と侍女がうやうやしくひざまずいて差し出す。
「今日のお越しの前に、なにゆえのお文・・・」
典子には不審である。
「御返事をと使いは申したかの」
「いいえ、御披見たまわればよろしきとのことでござうます」
「それなら、使いに心付を与えて文箱を返すがよい」
侍女をさがらせて、その姉の文を手にひらくと、折紙ちらしがきの世尊寺流のみごとな筆の姉の文字が展開する。
お庭の花を見よとお心に入れ候ておうれしく思ひまゐらせ候へども、
  花のごと 世の常ならば 過ぐしてし むかしはまたも 帰り来なまし
この古歌の心推しはかりたまふて、けふ不参おゆるしを念じ入りまゐらせ候
                                 佑子
典さま
  まゐる 申し給へ
読み終わって典子はハッとした。その「古今和歌集」の詠人知らずの一首は ── 年ごとに咲く花のごとくであれば、人の春もふたたび帰り来るであろうか ── 否との意味と世尊寺伊行これゆきから教えられた覚えがある。
広元さまが今日現れることを察した姉君の触覚のさても鋭さよ! まったくかぶとを脱いでしまう。その姉を向こうにまわしては、いつまでも幼く無邪気な妹の計画などまったく歯が立たぬのだ。
「母上、大江広元殿が見えられました」
その師を待ち受けていたらしい信清は、欣然きんぜんと告げて来た。典子は姉の文を慌てて小袿こうちぎののえり深く押し隠し立つ。
庭を見渡す正殿広間に今日に客の大江広元は端然とした姿で、かつての西八条の姫の典子に久しぶりで対面した。
「信清が御教授を願い居りますので、一日も早く母として御挨拶申し上げたく、勝手ながら花にことよせておはこび戴きました」
典子がせいいっぱい“母”としてなど気ばったことを言うのを微笑ましく聞く広元には、この七条修理大夫の北の方が、いまも変わらずあの館の対屋の祐姫の文机の傍で漢文聴講生となっていた仇気な童女に思える。
そこへ茶湯ちゃとうを運んで安良井が現れる。
「これは広元さま、まことにお久しゅうござうます」
広元にはこれはまたあの館で馴染んだ顔である。
「花を御覧下され」
信清はまず庭に広元を案内しようとする。
「おお、それがよろしゅうございます。どうやら空が曇ってまいりましたゆえ、もしや雨になどならぬうちにお庭へ」
安良井にうながされて、信清が広元を庭へ導いて出るのを見送って典子は ── 今日もし姉の姿があって広元と共に鶴と花の梢を背景に歩いたら ── と思うとやはりもの足りなくさびしかった。
広元が信清の案内で庭をめぐるうちに、うす曇りの空から雨粒が、初めは春の時雨しぐれのように、やがては雨脚は急となって驟雨しゅううと変わる。
「これは、これは早うきぬがさを持って参るよう」
典子も安良井も気をもむと、雑色が長柄の傘を持って庭に走った。当時は布張の大きな傘に長柄をつけたのが“きぬがさ”と呼ばれて、公家、僧侶用だった。
その傘が届けられるまで信清と共に、鶴の囲いの屋根の下に雨宿りしている広元の脳裏には、幾年か前の春、三善康信と連れ立って吉田の里に散策の途上で、春の驟雨におうて小さなほこらに雨宿りした折に、康信の口から祐姫を隆房少将の婚約を聞くと前後を忘れて雨の中に狂うがごとく走り出した、その衝撃の一瞬がいま、、あざまざと記憶の底から浮かび上がるのだった。。
その彼はこの朝、その祐姫 ── 現在の冷泉北の方からこの邸の北の方の典子へどのような文が届けられたかなど知るよしもない・・・。
そしてこの日のあと間もなく冷泉北の方に懐胎の徴候があり、翌承安四年(1174)新春に二人目の和子をあげられるまで七条家を訪れる折もなく引き籠られた。
2020/12/25
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