~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
春 の 象 徴 (四)
その春深む頃。
少納言局の昼も仄暗い少外記の個室を隣り合わせの持つ同僚の三善康信と大江広元は、事務の手際には、どちらからともなく訪れてしばらく語り合うのが、日頃のならわしだった。
その日も、康信はふらりと広元の机の前に姿を現した。
昨年思いがけず広元に縫殿頭ぬいどのかしらの下命があった時に一笑して「康信殿とは一蓮托生いちれんたくしょうでありたきものよ」と、この少外記の離れなかったこの断金の友と語り合うのが、康信の生き甲斐のようである。
その康信がいま声をひそめて言う。
「── 遮那王しゃなおう殿がつい先日鞍馬寺を脱走されて陸奥みちのくに向かわれたそうな」
突然こう聞かされて、その遮那王なる者への思考へ広元が頭を回転させねばならぬ。
「いや、もう世間からは忘れられている平治の乱の敗将頭の殿(義朝)の遺児、いま伊豆の流人佐殿(頼朝)とは異腹の弟君よの」
「おっ。そうじゃ、美女常磐と申すが幼き和子三人を連れて六波羅へ名乗り出たとか世に伝わったが」
広元はそれを思い出した。
「その三人の和子は上は今若。中は乙若、末の牛若殿は当時常盤どのに抱かれていられた年齢、その後いのちは助かり、上の二人は醍醐の寺にて出家、牛若殿は鞍馬寺の稚児遮那王と名付けられたが、それがつい先日山を脱け出されたそうな。もう十六歳で、源家義朝公の血を受けていられるからには、武人にて身を立てようとの止むにやまれぬ血気にはやられてか・・・」
「陸奥へ向かわれたとあっては ── その奥州の父祖三代にわたる豪族藤原秀衡ひでひらの勢力をたよってかと思われる」
広元はその少年の野望を想像する。
「途中みだりに放浪されず、その地に辿りつかるればいいが・・・奥州の天地にゆるがぬ、実力者秀衡家には大相国清盛入道もその勢力との連結を望んで、先年従五位下、鎮守府将軍に任ぜられるよう取りはからわれたが・・・」
康信が言えば広元は冷徹な表情で、
「そのような官名はなんの必要もあるまい。『万葉集』に大伴家持おおとものやかもちが、“すめろぎの御代栄えんとあづまなる陸奥山みちのくやま黄金くがね 花咲く”と詠まれたように、黄金燦然さんぜんと輝く金堂を建立したと伝えられる富強の王者は、清盛入道の意のままに動くはずはなかろうと思われる」
「おお、それなら一日も早くその地に入らば、秀衡家にかくまわれて雄々しき武者にもなられようが ── もし鞍馬寺出奔が平家の知るところとならば、追手がかかって旅の途中に捕らえられるやも・・・」
康信はそうした取り越し苦労を源家の御曹司にするのである。
「ハハ・・・」
と広元は笑った。
「そのような懸念は無用、いま平家の世盛り、源家の遺児の末子ばっしの一少年の動静など気にもかけまい」
「なるほど、そう願いたいものよの」
康信は安心して広元の机を離れた。
── まさにその通り、清盛入道は目下は後白河法皇の御機嫌をとって、平家とのきずなをかたく結ぶに一意専心であった。
その春三月十六日に清盛夫妻は福原の別荘に、法皇と建春門院を招待して、折から福原大輪田とまり(港)に寄航の宋船の船員たちの宋服姿をお眼にかけ、清盛入道自身も宋服を着込んで法皇歓待につとめた。その三日後には法皇、女院に供奉ぐぶして春の海を渡って厳島に ── と、清盛は数日をひたすらに奉仕した。
その頃、西八条の広大な庭園の奥に清盛夫人時子の持仏堂じぶつどう“明光心院”の建築が始められて。
先年高倉立太子の折に時子は從二位に叙せられた。その時から清盛は多年の内助の功のわが妻二位殿のために大きな贈物を考え、それが今この堂の建立となったのである。
2020/12/25
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