~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (一)
安元二年(1176)三月に後白河法皇五十の御賀が行われた。
去年の春、清盛夫人建立の光明院の御堂供養も美しく着飾った女人の集まりで華やいだが、それは平家一門の私的な催しだった。この年の皇室のこの祝典は公的な行事であり、三月四、五、六の三日にわたっての盛大な祝賀の宴は、後世まで史上に伝えられる有名な式典となった。
その豪華な祝賀は、法皇院政下の政界の覇者平清盛入道が総指揮で、全力を挙げて法皇の歓心を買うための努力であった。三日つづきの御賀にはいずれも平家一族は奉仕し、舞楽の舞人まいうどには清盛の嫡孫十九歳の美青年維盛これもりが“青海波せいかいは”を舞って、物語の源氏の君の再来かと内裏の女房たちは感涙にむせんだ。
その女房たちは三日の間、みな競って毎日晴れの装束を着替えて式典に列したので、その顔は見えず、衣裳ばかりが人眼についたという。
彼女たちの晴れ衣装は十二ひとえといわれる。小袖の上に長く引き摺る袴をはき、その上に単、あこめ等五枚或は十枚重ねてさらに唐衣からぎぬを着る。こうなるといかなる美女も衣裳に埋もれて、立居も苦し気で、「御衣ぎょいばかり見えさせ給う」と、その衣裳だけが眼に入るというわけだった。
略装の小袿こうちぎも唐衣をはぶいただけで、小袖に袴という軽装はまったくの部屋着であり、外出着の歩行に適するための壺装束も紐で腰を結び袿の裾をからげてやや便利だが、それとていかにも重々しく窮屈であった。その上に髪は背におすべらかし・・・・・・として垂れ下げて身の丈より長きを誇り、村上天皇(在位946~967)女御にょうご藤原芳子は牛車に乗られても、黒髪の末端は寝殿のひさいの間の柱の下にまだ引き残されてあったと、古典「大鏡」にある。
村上天皇の御代から二百年あまり後の、平安末期の平家全盛のさなかの高貴な婦人風俗も、いささかも変遷はなかった。というのは、その時代の貴婦人がそうした衣裳の伝統に完全に服従して、その服装が肉体を苦しめ健康をむしばむのを意にとめず、ただ模様や色彩にあらん限りの智恵をしぼって、わが服飾のより美しきを願った涙ぐましき美の殉教者であったからだ。
しかもそれと共に、化粧品の“しろきもの”とも“はふに”とも呼ばれた白粉には、多分に鉛の粉が含まれていたが、その鉛毒を知らぬままに用いられた。ことに幼時“もがさ”(天然痘)に罹病して顔に“あばた”を残す不幸な女性が貴族夫人にも多く、厚化粧が必要だった結果、むごい鉛中毒で身をほろぼした女性もあった。小野小町の悲惨な晩年も、和泉式部がらい病になったとかいうのも鉛中毒だろうという説がある。
また当時の風習の早婚が女性に災いして、多くの犠牲者が生じた。平安期の貴族女性の平均死亡年齢は四十歳以下で、六十歳以上の長寿を保ったのはきわめて稀である。
それを説明するように、豪華な法皇五十の賀のあとに二人、貴族女性がいずれも三十代で世を去った。
2020/12/26
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