~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (二)
六月十二日夜半、法皇の妹君にて、かつて二条帝の后だった高松院妹子内親王が日頃の“足のけ”(脚気かっけ)それに痢病が加わって崩御された。御年三十六歳であった。
その頃に建春門院が悪性のはれものに悩まされてひき籠り、侍医丹波憲康たちのきゅうはりの治療を受けていられたが、七月八日その日堪えがたき残暑の午の刻近く絶え入られた。法皇の寵姫、高倉天皇の母后、そして清盛夫人の妹滋子は三十五歳の幸運の生涯を皮下組織に生じた急性化膿性炎症で惜しくも閉じた。
高倉天皇はこの悲報に御涕泣ていきゅうの如しと伝えられた。
清盛夫妻は女院の快癒を神社仏閣に祈願、腫もの灸治用に西八条坪庭のよもぎを届け、その容態に一喜一憂したが、かくもあえなく失せられるとは思いもかけなかった。
「ついこの春、法皇五十の御賀には、桜にちなんだ御衣裳を三日の間あれこれとあざやかに替えさせられてお健やかにお出ましだったのに ── それがこの四ヵ月のち秋の葉末の露のように、はかなくなられるとは・・・」
日頃は女性通有の感傷性を制御して理性的に振舞う時子も、この妹の死はこうして歎いた。
しかも妹を失った悲しみの上に、も一つ深い失望が重なっていた。
それは建春門院滋子こそ、わが良人清盛と後白河法皇との親和力を通わせる強い絆であったことで、いまその絆は断ち切られたのだ。同じ思いは清盛にもあった。ただ言葉に出さぬだけであった。
建春門院の葬礼は二日後の十日、やや初秋らしい晴天下で行われた。蓮華王院の法華三昧堂のその地下深きところの石唐櫃いしからびつに、女院は永久に眠りに入られた。
葬礼から帰った清盛夫妻は同じことを言い合う。
「この上は中宮(徳子)から一日も早う」
と清盛が言いかけると、
「皇子御誕生を祈るのみでございます」
妻の時子が応じた。
── その年の七月は皇室には不吉な月であった。建春門院の初七日の三日後に、六条上皇が崩御された。上皇は後白河法皇の皇孫、二歳で即位、五歳で叔父君八歳の憲仁親王(高倉天皇)に譲位、幼い上皇は十三歳の少年でみまかられた。
公卿、朝臣は鈍色直衣にびいろのうし指貫さしぬき無紋の諒闇りょうあん装束になった。
清盛北の方が肉親の中でもっとも生涯のたのもしい妹君と思われた建春門院を失われた痛手に打ち沈むその愁歎を慰めるように、ほこらかなよき知らせが舞い込んだのは、その七月の終り頃、七条修理大夫北の方典子の懐妊のきざしを、安良井がいそいそと報告に駆けつけた時だった。
「おう、それはそれは」
あの末の小姫が“母”になるとは・・・時子は感慨無量だった。それと同時に不安でもあった。
あのいささかわきまえを知らぬ典子が妊娠、出産という女の大役であり、かつまた大厄たいやくでもあるそれは、ほかの姉姫たちのそうした場合より一層容易ならぬ注意を要すると考えねばならぬ。
「安良井、いかがであろうか。これからが大事な身体、やがてつわりにも悩もう、まず養生第一、あいにく典子はとかく我儘者ゆえ、そなたの手にあまろう。それでこの西八条に預かって首尾よく安産までを、この母が見守ってやりたいと思うがの・・・寛子のようにせっかくのところを“うみながし”になっては一大事よ」
藤原基道に嫁した寛姫は昨年流産後健康すぐれぬ。
「まことに仰せごもっとも、さようお計らい戴けますなら、この安良井も安堵、さっそく修理大夫さまの御意ぎょい伺いましょう」
妻の実家で出産するのは、よくあるならいであるから、良人の信隆に異存あるまいとは思える。
── 清盛が日々公務を執る六波羅から帰り、時子からこの吉報を聞くと、反射的に言うのは、
「末の小姫さえもう母になるのに、中宮はいまだに・・・」
清盛の念頭には絶えずそれが気がかりなのである。
「中宮にはいまだその時が授けられぬのでございましょう」
こう言って良人を慰めなばならぬ。けれども中宮徳子もすでに二十歳である。母の時子も気がもめるのだった。
2020/12/27
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