~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (三)
── まもなき日、典子は安良井や侍女二、三をひきつれて西八条に移って来た。
姫時代に起き臥しした対屋は、産室としてはいざという場合に長い藁殿の距離が心配である。そのために母の眼のいつでも行き届くようにと、北の対の母の居室に近いところに産室をさだめて典子の居住に当てた。
七条殿北の方、御懐胎にて西八条にお移りとの事をいち早く知られたのは、一昨年二人目の和子の母になられた冷泉家北の方佑子であった。
これは安良井が母の汐戸にまで通じたからである。
汐戸からそれを聞かれた佑子は、あでやかに微笑んだ。
「いつぞや、そなたから、安良井もあちらの更科どのも、信隆卿と典さまとは父君と姫のようなお仲のみで案じられると告げられたの」
「はっ、そのとき仰せられた『そのうち必ず鶴のような美しい一夫一婦の女夫めおとにおなりよ』とのお言葉、よう覚えております。安良井にもあの時すぐに申し伝えておきましたゆえ」
汐戸はいまさらにこの北の方の先見の明に畏服させられて、そのお顔を見上げると、ついさっきふっとあでやかに浮かべられた微笑は跡なく消えて、さびしげに美しい眼を伏せられた・・・。
信隆卿が、仇気あどけない北の方がやがて身も心もお育ちになるまで、いつくしみ見守られたのにひきくらべて・・・祐姫が六波羅の牡丹の宴で処女おとめの春の名残の筝を弾くという、誰も彼もが望んだそれを空しくさせて、その十日前のあわただしき挙式の目的は、ただ隆房卿が一日も早く祐姫という世にも美しい花を手折りたかったからだと ── よるとさわると口さがない人々があざけり笑う噂の中に、身も世もなく悲しまれた。それを思い出されたに違いない ── と汐戸は痛々しかった。
あくる日、冷泉北の方は汐戸を供に西八条に牛車ぎっしゃを向けられた。
母の時子は、妹のめでたき懐胎をよろこび、さっそく見舞う姉の佑子を迎えて上機嫌だった。
「まだ産み月は明春なれど万事あやまちなきようにあずかることにしました。いずれいわた・・・帯の儀は姉のそもじの手を借りたきものよ。あのようにいつも安産ですこやかな眉目よき和子をされたによって」
典子を愛する姉君への、母時子の信任は厚かった。
── やがて典子の部屋へ行くと、早々と訪れた姉の姿に飛ぶつかぬばかりにして、
やや・・を生むには身体をいたわって月の十あまりも籠るのは窮屈で気がめいるようで困り果てますの」
といかにも典子らしい不平を洩らす。
「いまから、あまり静かにお籠りにならずとも、ときどきお庭を御散策なさるのがおよろしい」
姉はお産の経験者として意見を述べる。
「庭と申せば、ここは鶴が居らずにもの足りませぬ」
「鶴よりもあのお優しい修理大夫さまがここにおわさず、それもおさびしいはず」
と姉にからかわれると、笑いもせず真顔になって、
「修理大夫さまは三日にあげずお顔を見せられますが、鶴は七条の庭から飛んで参りませぬ」
次の間に控える汐戸や安良井が忍び笑いをさせられる。
「祐さま、鶴がこの夏卵を生みました。一羽が二つも、そして一雄一雌の女夫が代りがわりに二つの卵をあたためて、ひと月あまりで雛が卵から現れ、半日もするともう歩きます。ほんとに可愛ゆい荷など雛鳥・・・人間も卵を生んでそれを女夫であたためて、卵の中から可愛ゆい子が生れたらよいのに・・・どんなに手軽で楽でしょう。典子も卵で生みたい!」
汐戸たちは笑いころげている。
2020/12/28
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