~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (五)
冷泉北の方は、西八条で産後の休養中の妹君典子を何度か見舞われた。いわた・・・帯の“帯親”でもあり、とりわけ仲睦まじい姉妹である。
この妹思いの佑子の優しくそして賢い気立てに姉妹の母時子はいつも感服させられる。
その日も佑子は西八条を訪れると、まず母の前に御機嫌伺いに現れる。
「典さまもお肥立ひだちちもよく、和子さまも伺うたびに日に日にお育ち、めでたき限りに存ぜられます」
「あなたの帯親のおかげで、安産、母子ともにすこやかにてみな喜び居ります」
「いえ、いえ、これはもな母君御建立の御堂みどう光明心院の御守護でございましょう」
へつらいでもなく、まことこもりし言葉にに聞こえた。
「冷泉家の若組若君方もおすこやかであろうの。もう上の和子は六歳になられるの、月日の経つのは早いもの・・・・」
汐戸も進み出て述べる。
「隆衡さまはお六つで、母君からもう白楽天の漢詩をお習い、お覚えもおみごとでございます」
汐戸の自慢にその若の母ははじらう・・・六歳の子の母とは思えぬ年齢としまだ二十二のろうたけた匂うような若々しい美しさを時子は眺めて、
「そのような末頼もしき若と、眉目うるわしく心ばえすぐれた北の方を持たれた隆房少将は世にも果報者よの。それをお忘れで浮たる心であだし女にうつつをぬかすような振舞をなさることあらば、西八条のこの母が承引しょういんいたしがたいと、きっと申したとお伝えなされよ」
ざれどとならず、真剣な音声 ── 意味深長に聞こえた。
「母君のそのありがたきおことば、必ず少将さまにお伝え申しましょう」
佑子は婉然と微笑んでしとやかに手をついたが・・・傍の汐戸はなにか胸騒ぎがして気がかりになった。
ところへ典子が安良井を従えて現れた。すでに産褥さんじょくを離れてすこやかな血色で、おとなしく引き籠ってなどいられぬ。
「まあ、祐さまは母君とのみ語りあわれて・・・」
妹のもとへまだ見えぬのを待ちかねて彼女はそこへ来たらしい。
「典子、さような不服がましきことを申すでない。母は冷泉家の若の末頼もしき成長を聞いて、喜びおったところよ。典子の和子隆清もゆくゆくは賢く成長させねばなりませぬな」
「さあ、それはいかがなりましょう。学才すぐれた祐さまの和子とは競えますまい。それよりいっそ典子は姫がほしかった。姫ならばやがて従兄の隆衡さまの北の方に迎えて戴けましたに・・・」
それは彼女のひそかな願望であったらしい。
「さりながら、幼い折のあのやんちゃな典子に似た姫では、冷泉家でもお考えになろうの」
母の時子の揶揄やゆに一座は笑いさざめいた。
── やがて夕づく頃、冷泉北の方と汐戸を乗せた牛車は西八条の門を出た。その車の中で、
「今日の母君のお言葉は、お忘れなくしかと少将さまに申し上げて下されませ」
汐戸が言うと、北の方佑子はかすかに眉をひそめるように、
「そのようなこと、ことさら申し上げずとも・・・少将さま何をなさろうと佑子は悲しゅうもない」
一夫多妻の風習が平然と許された当時ではあるが・・・それでも正妻北の方の心は平らかならぬが当然でった・。けれろも佑子の場合、それを冷ややかに見過ごせる心境とは!
それが、良人の隆房少将を愛しておらてぬからだと、汐戸にはよくわかっているだけにはかなかった。
もしも、あの大江広元さまと結ばれた結婚であったら、万が一にも広元さまがよそに心をいっときでも移されたら、それこそもの狂おしいほどお歎きであろうにと汐戸は思う。
そうは思っても、今日の母君のお言葉の裏には、何かが秘められてあると汐戸は感じる。
「北の方さまは少将さまなにを遊ばすとも・・・と思召されても、西八条の御母君の今日のお言葉をなおざりになされてはなりませぬ。ともあれ少将さまにお伝え遊ばせ」
「汐戸の気のすむようにいたそう」
佑子は汐戸にはまけてしまう。それでも汐戸は安心せぬ」
「この汐戸がおそばにお付きする折に少々さまに申し上げられませ」
隆房少将の反応を見届けたい汐戸だった。西八条の母君は祐姫にはお心に“借り”がある。祐姫が御幸の日に帝のお眼にとまったゆえに、姫の心に染まぬ縁談を強いられ、しかもすでに大江広元さまとの恋仲であったとも知られては、惻隠そくいんの情に堪えられぬ西八条北の方、それゆえに隆房少将が美しき祐姫を強いて手折っておきながら、さらに好き者の振舞は許せぬとの思召しからのあのお言葉はなおざりには出来ぬ ── これはある事実があってこそと汐戸は思い詰めている。
牛車が冷泉家にたどりつくと、まだ灯ともし頃に間があった。
2020/12/30
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