~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
小 督 出 現 (六)
まもなく隆房少将は近衛府から帰られたのを、家従たちと迎えた汐戸は、
「北の方、本日西八条へ七条北の方のお見舞いに伺われました」
と、報告すると、
「おおそうか、北の方は良人の隆房より妹君の方がお好きらしいな」
いやみを言われる。
近衛府出仕の装束を直衣に更えて、寝殿正面の主の座にくつろぐのを、北の方は長子隆衡と待ち受けていられた。
「西八条の二位殿(時子)は御機嫌いかがか」
「はい、この隆衡が末頼もしいとおめに預かりました」
汐戸が茶湯を運んで来て、
「若さまはお夕餉を召されませ」
と ── 六歳の童子は夕餉も両親より早く、そして早寝である。板敷に控えた傅役もりやくの家従が心得て隆衡を連れ去る。
隆衡に乳をあげた小藤が乳離れ後去ると、母の佑子の意見で律義で作法正しい老家従をつけたのは、七条修理大夫信隆の子息教育の方針にならったのである。
隆衡が立ち去ると、汐戸が言う。
「西八条の北の方は仰せられました。末頼もしき若と、眉目うるわしく心ばえすぐれた北の方を持たれた隆房少将は、世にも果報者よのと ──」
彼女は佑子に、そのあとを譲ってどうでも言わせようと仕向ける。
「いかにも二位殿の仰せの通りよ」
と隆房は心地よげにあごを撫でる。
「ホホホ」
裕子がやおやかに笑った。良人の前でこのように笑い声をたてたことのない、妻の珍しい笑いに驚かされた隆房は、
「なにがおかしいかな」
「母君がその折少将さまへのおことづけと仰せられましたを思い浮かべますると・・・」
「なに麿まろに二位殿よりの御伝言、早う聞かすがよい」
「申し上げてもお腹立ちありませぬか」
「なんの、なんの、入道大相国の内助の功多大の北の方、姫たちの御賢母として円満具德の二位殿からこの隆房への御伝言とあらば、なんなりと謹んでうけたまわろう」
平家の権勢には媚びへつらう習性の身についている上に、娘婿として清盛夫人時子には信用を得ているという自信があった。
「どうでも聞かせよと仰せられますれば、申し上げます・・・」
佑子はここでためらう。
「早う申されよ」
隆房はせき込む。
「── さきほど汐戸がお伝えいたしたように少将さまは果報者とやら ── それをお忘れにてあだし女にうつつをぬかすようなお振舞がもしあらば、西八条のこの母が承允いたしがたいと、きっと申し伝えられよ、と仰せられました」
「不意を突かれて隆房も敗亡はいもうのていだった。
「いや、それはあの小督こごうのことであろう」
彼は小督の件を時子が祐姫にも知らせたと早合点した。
「案ずることはない。小督はもう隆房ごときは眼中にない。麿と馴染みし頃は初々しかったが、内裏に仕えてからは、麿につれなき女性となった」
隆房が怨みがましくかこつ言葉に、汐戸は思い当たった。隆房と佑子の縁談が成立した時に、世尊寺伊行が歎いて『藤原なにがしの息女を中納言の肩書で釣り上げて云々』と隆房の旧悪をあばいたのは、それは小督との情事であったかと・・・。
「つれないきとをなされたは、少将さまでございましょう。それゆえに小督どのはりていられるのでございましょう」
佑子が身勝手な隆房の思考にとどめをさした。
「いや、この隆房を袖にしたのは、小督がお上のお眼にとまったからよ」
佑子は、はっとした。
「それほど昔より御執心の小督、早う内裏よりさがらせて、この冷泉家の邸にお迎えなされませ。佑子は不服は唱えませぬ」
汐戸はうろたえて、佑子の小袿の袖を引いて、
「北の方さま、なにを仰せられます。さようなことを・・・」
「いいえ、そう計ろうが中宮のお為ではなかろうか。お上のお眼にとまってやがて御寵愛を蒙れば、中宮さまのおさまたげともなろうに。それを思えば少将さまのお傍に小督どのをと佑子は願います」
「ハハ・・・せっかくながらそれは笑止千万」
と隆房が声高く笑った。
「わが北の方が姉妹の中宮への心づくしはみごとなれど、いかにせん、もはや小督はお上のたねを宿しておる」
佑子も汐戸もいまは呆然とするのみ。西八条の母君はそこまでご存知であろうか?
日頃ひたすら中宮の一日も早き御懐胎を乞い願っていられるのに、それに先んじ内裏の女房小督が・・・・とは。いまは言葉もない佑子と汐戸に隆房の声のみひびく。
「禁中では産穢さんえを忌む故例に従い、后妃女官いずれもその身となられると里方へ退出される。よって小督も近く嵯峨さがの生母のもとへさがるが・・・万が一にも小督から皇子御誕生とあれば一大事よの・・・これはいっそこの隆房が小督をむかしのままの愛人にいたしておった方が、入道相国御夫妻にも中宮にもむしろお仕合せではなかったかの」
皮肉ともやや嘲弄とも ── さきほどの二位殿の伝言に釘を打たれた復習とも思えるその軽薄さ。だからこそ、この卿を北の方佑子はいかにしても愛し得ぬのもことわりだった。
隆房はそのわが前の北の方を見やって、
「小督はうわべは嫋々じょうじょうとして、しん・・は強い女よ。それはわが北の方の気性に似通っておる。眉目美しきもよう似ての」
ふうするところあった。
佑子も汐戸も無言なのに苛立って彼は声荒く、
「夕餉の瓶子を早う運ばせよ」
いつのまにか灯ともし頃、酒盃を求める彼は、かつて意のままにしてのち棄てた小督が、彼を尻目にかけて帝の寵を得たことに鬱然うつぜんとしているのであろう。
2020/12/30
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