~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
彗  星 (一)
治承二年(1178)一月七日の夜空に 彗星 ほうきぼし は現れた。この尾を引く星の本体は、個体粒子とガスの集合体などと説明する天文学のなかったその時代、そうした妖星の出現は世の乱れる前兆として人々を恐怖に陥れる。
「この年なにごとか平家にまがごと(禍事)が起らねばよいがの」
西八条の館の廻廊に立って、夜空を仰いで時子はつぶやく。それは昨年鹿ヶ谷の事件で一族の縁者を遠島させ、孫の維盛の岳父成親は配所で落命した不祥事が忘られぬからだった。
その三月二十四日の夜、七条の西方から出火、七条坊城に広大な地を占めて七条殿と呼ばれる 修理大夫 しゅりだいふ 信隆の邸の上に、火の粉は星の降りそそぐように風に煽られて飛び散った。
「北の方、女房たちはすみやかに西八条へ!」
と、信隆は火の手の近いのを見るより早く牛車を引き出させ、妻と二歳の隆清と安良井を乗せ、更科には侍女たちをひきいさせて、雑色に守らせ西八条の館へ避難させる。
牛車が出るまぎわまで、北の方典子は、
「鶴も西八条へ」
と言いつづけた。
この無邪気な継母の声に信清は庭に走り出て鶴の檻の網戸を開いて、
「心あらば西八条大相国の館へ飛んで参れ」
と声高く叫ぶと、鶴の一群はさっと白い翅を美しくひろげて地上の炎の反射にあかあかと真昼のように明るい夜空に舞い上がって、北方の空のかなたに消えた。それは西八条の方角ではなかった。鶴は西八条は知らぬ。
久しく留鳥として庭園に飼育された彼等は、鶴の習性の春には北の空に帰る本能のにめざめたのであろう。
信隆親子は家従、雑色たちを指図して防火につとめ、庭の池の浮き島に家宝の品々を運びなどした。また修理職の輩下や西八条、六波羅からあまたの消防応援団が駆けつけたが火勢は手に負えず、ついに火は七条東洞院の平 知盛 とももり 邸に及んで暁にようやく鎮火した。
この火災は、昨年四月の大極殿を焼失したほどの大火に比べれば小さな範囲に止まったが、平家一族にとっては清盛夫妻の四男知盛の邸宅と六女典子の婚家を焼亡させた火災だった。
知盛一家は六波羅にもあった控邸にひとまず移り、七条殿の北の方典子と女房たちは西八条に空いている東西の対屋に滞在した。信隆は親交のある参議(太政官庁参与職)藤原定能邸に子息信清と身を寄せて、焼け跡整理を急ぎ再築の起工にかかったが、建築修理の職だけに手まわしよく運んで、それを機会に嫡子信清の棲居を広い庭園の一方に別棟として建設した。
それはすでに二十歳となった子息の将来の結婚生活に備えてである。信清もいまは高倉天皇の若き侍従として出仕している。
その妹殖子は伯母 唐橋 からはし の局の わらわ として内裏に入ってから、その才色すぐれて目立ち早くも 内侍 ないし に進み中納言内侍と呼ばれる。この兄妹の父の信隆は羨まれて、「あまたの鶴を飼われる功徳であろうよ」とも噂されていた。またなかには「子息と同じ年齢の平家の姫を後添いにめとられたが幸いされた」とも噂されていた。
── その春の暮れゆく頃、朝廷の侍医から平清盛家に、「中宮にはまさしく慶事のお兆あり」と告げられた。この中宮御懐胎の吉報に、清盛夫妻は取り乱すほど狂喜した。
あの彗星出現によって平家に何事か凶事起るかと怖れた時子は、それは典子の嫁いだ七条家と四男知盛の邸焼失の小難で厄落としをすませたからこそ、そのあとに待ちに待ち望んだ吉報が舞い込んだと思わずには居られぬ。彼女は、わが邸の焼失後は実家にわが子隆清と共に安良井や更科以下の侍女を引き連れて、姫時代の古巣の対屋に滞在の典子と顔を合せるたびに言う。
「七条殿の邸と共に輿入れに持参の調度や衣裳が灰となったとて案じることはない。前にまさるとも劣らぬ調度、衣裳をふたたび持たせます」
「母君は七条邸の火にかかりしをお喜びのごようす」
と典子が安良井につぶやくと、安良井は答えた。
「中宮さまめでたき御懐胎をおよろこびにて、七条北の方へふたたびお輿入れ同様のお支度をなさることなど、いとやすきことと思召されましょう」
「それでは、さながら七条邸が焼けてこそ中宮御懐胎あったとでも母君は思召すのであろうか・・・それではこれからも中宮御懐胎のたびにわが邸を焼かねばなるまい」
2021/01/02
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