~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
彗  星 (三)
やがて入道相国の赦免状をたずさえた使者が硫黄島に迎えの船を向けて出立しゅったつした。通称鬼ヶ島と呼ばれるそのはるかな海上の彼方までの風波荒い海路は、ともすれば二十日も日数を経るという。
その迎えの舟がようやく九州の海辺に着くかと思う七月なかばの雨ふる日に、清盛入道の三男宗盛の室がしばらくの病臥で急逝した。── 「さてこそ、鬼界ヶ島に一人残されし俊寛の執念の祟りよぞ」早くも蔭の声が、しやり顔の人々の間にささやかれた。
宗盛の室は時子の末の異母妹である。時子が六波羅の若殿清盛の後妻に嫁いだ頃はまだ乳呑児だった。
「郁子は俊寛の怨みが中宮の上に祟るのを怖れて、それをわが身に引き受けたのであろうよ」
と、時子はその頃まったく理智的な思考力を失って、ただ中宮御安産のために何事も犠牲になるのが当然のようにさえ思う。
その妹郁子は中宮御安産後はその御子の保育にあずかる役に内定していたが、そのためににわかに中宮大夫時忠の室がそれに代わられた。
── その八月上旬、七条邸は居住出来る程度に再築なったので、まだ工事未完の所はあったが、とりあえず典子たちは西八条から引き移った。
母時子の約束通り輿入れ当時と同じように調度、衣裳も贈られ、その他に冷泉北の方を初め諸処からの贈物で「七条殿は焼けぶとりよ」と羨ましがられた。
その月の中旬に、中宮は内裏から六波羅池殿の産殿に移られると、伊勢神宮、厳島神社、いたるところの神社仏閣に御安産と皇子誕生祈願が行われた。
月満ちて十一月十二日とらの刻から御産気催されると、中宮は陣痛のお痛みのみながびき御産は難儀であった。
清盛も時子もただおろおろするばかりで、
「保元、平治の戦場にても、これほどの心配はなかりしものを」
と清盛は歎じた。
御安産祈願の高僧たちは詰めかけて秘法の祈りに精魂を尽くした。妻の喪に籠る宗盛以外、六波羅一族はみな池殿に集まった。
法皇も池殿に渡られて、几帳の傍近く千手経せんじゅきょうを誦されて水晶の御数珠を押しみ給うた。
しばらくして、産院の御簾みすをかかげて、清盛の五男、当時中宮職次官の重衡しげひらが立ち声高らかに告げた。
御産ごさん平安へいあん、皇子御誕生!」
あっと人々の歓喜のどよめきが、池殿の門外にまでひびき、清盛は感きわまって、泣きだした。
后の御産の直後に御殿の軒からこしきころがし落す慣例が行われた。これはがとどこおりなく出るまじないであり、甑とは飯米を蒸す瓦製の蒸籠せいろうで、円型の底に小穴が幾つもある。それを三つに割って置いたのを合せて麻紐でくくって落す。皇子の際は南に落し、皇女の時は北へと掟があった。
その日その役を受け持つ中宮職員は、皇子誕生に喜びの湧き立つ雰囲気に煽られ昂奮したあまりに、北に甑を落してしまった。皇子誕生は南に落さねばならぬにその失態に慌てふためき、甑を拾い上げて改めて南方に落としなおした。
そのありさまを見た人たちの間にはひそかに「なんぞあしき兆にならねばよいが」と蔭の声がささやき交わされもした。
皇子御誕生の祝賀に早くも参上の関白藤原基房以下の公卿はどっとばかり六波羅池殿の車宿に牛車をあふらせた。
2021/01/03
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