~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅰ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (中) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
京 と 伊 豆 (一)
六波羅池殿の産殿にて御誕生の皇子言仁ときひと親王は御七夜に皇太子に立たれ、叔父君の宗盛が東宮大夫とうぐうたいふを拝命した。
この皇子がやがて皇位を継承されれば清盛は外祖父、かつての藤原道長を望んだ夢が実現する。
御産後の中宮の御回復もすみやかで、やがて内裏の中宮御所にお帰りになると、清盛夫妻も正気にかえったようにやっと落ち着いて西八条に帰り、翌日は天皇と中宮、春宮の御機嫌伺いに参内さんだい、皇太子の外祖父としての喜びを満喫した顔で夕刻に戻ると、それを待ちかねていた時子が、
「今日七条の典子が参りただならぬ事を告げました」
と近習を遠ざけて密談に入った。
七条北の方が訪れて母に告げた事実を知らされた清盛はさほど驚かず、
「うーむ、その少将局はすでに実家にさがったか、宮中での御産は禁じられているからには、七条の娘も実家にさがらねばならぬな。典子はともあれ中納言内侍の母じゃ」
「典子の姉は中宮でおわします。それにその継娘が帝の寵を受けては・・・修理大夫しゅりだいぶも痛しかゆしと思われますが、さすがに老巧な方とて西八条の二位殿のお指図に従うと申されたよし、幸い兄能円は法勝寺執行しぎょうにて邸も広く妻の範子も心ききたる人、この夫妻のもとにて中納言内侍はやすらかに御産をなされ、御子の御教育も能円にお引き受けさせましょう」
時子はこの方針を案じて典子を安堵させて帰したのである。
「そうあれば修理大夫にも異存はなかろう。ともあれ、幸いすでに中宮は皇太子の母后となられた。われらおおらかな心でそれに対処いたそうぞ」
次代の帝位を継承される皇太子の外祖父清盛はそれゆえに寛大に構える。
「さりながら ── 帝もまだ十八のお若さであまりに ── さきには小督こごう、そして中納言の内侍、又少々局と・・・」
時子は帝の女色への傾斜を歎かずには居られぬ。帝の母后は妹建春門院である。帝にとって時子は伯母に当たるから、若き帝のために真剣に憂慮したのだった。
「いやそれと申すも“院政”のゆえじゃ。天下のまつりごと(政事)ことごとく御父君後白河法皇の御掌中にあれば、天皇はただ宮中の除目の儀式などにお出ましになるだけにて、ほかに何一つなさる事もなく、いきおいお傍に仕える女人にお心をかたむけられるのじゃ」
こともなげに清盛は言い放つ。
「そのお暇明ひまあきを御学問にいそしまれるこそ願わしく、やがて幸い天皇御親政の御代ともならば、その御学問こそいかばかり天下の御政事にお役に立つことでございましょう」
時子はそう言いつつ ── いまもし大江広元が平家の婿であったら、今日にも帝の侍読じどくに出仕させようものを・・・と胸がうずく。
この日、時子が帝へ御学問をと力説の甲斐あって、翌治承三年(1179)二月十三日に、清盛は宋船ではるばる取り寄せた書籍「太平御覧たいへいぎょらん」二百六十巻を高倉帝に献上した。これは宋国の太平興国二年に太宗皇帝の勅命で編纂された古今の事実を五十五部門に分類した大百科事典だった。
それから十一日後に法勝寺執行能円邸で中納言内侍から皇子守貞もりさだ親王が誕生。
その月の下旬に宮内大輔平義範邸で女官少将局からこれまた皇子誕生、惟明これあき親王となられた。
この皇太子の弟君たちは誕生順で二の宮、三の宮と呼ばれ、二の宮は時子の兄能円夫妻が養育に当たり、三の宮も御生母の実家義範邸でお育てする。
七条家の難問題もこれでめでたく解決した。病床の信隆は、「これもすべて西八条二位殿のかたじけなき御配慮ゆえ」と安心した。
あまりに安心して気がゆるんだせいか、その頃から信隆の病状には早くも老衰のきざしさえ見えて気力を失い、責任の重い修理大夫の職に堪えずとその三月中旬に致仕ちじの表(願)を差し出して保養専一に老後を送ることに心をさだめた。
2021/01/05
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