~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (一)
白川殿の葬儀は盛大に行われて、三日の廃朝が仰せ出された。
三日の間を朝廷での政務を廃さるるのは内大臣以上の喪に服する時だけである。“准三后じゅんさんごう”の位置はそれに相当したのだった。
その白川殿の初七日を過ぎたばかりの頃、清盛はただならぬ顔に怒りを見せて六波羅から帰るなり妻を呼んで、
「法皇の御幸をこの西八条に迎え、厳島の内侍に舞わせて御感ぎょかんななめならずと思いしは、ついこの春のことじゃったが・・・」
「はい、まもとに御機嫌よく『入道相国しょうこくとはこのように日毎に睦まじゅう語り合いたい』とまで仰せられました」
時子もそれを思い出す。
「それがなんと、御所存はいかにしてもこの入道相国納得いたしかねる。よく聞けよ。
盛子が十一歳にて永別せし近衛殿(基実)の遺領を相続せしは当然のこと、しかるにこのたび盛子を去るや、たちまちその遺領すべてをお取り上げにて院領となされたわ!」
清盛はその憤激が抑えかねて爆発した声だった。
盛子の亡夫近衛基実の遺産の荘園は莫大なものだった。それを未亡人の盛子と嫡男基通が受け継いだ。
いま母盛子が世を去れば、当然基通がそれを相続すべきである。それを ──。
時子は法皇の思いがけなき御処置に胸を衝かれた。この春、御幸のこの館ではかたじけないほど平家一門に親和力を示された法皇が、いざとなると苛酷なお仕打ち・・・端倪たんげいすべからざるお方とは今更でなく知っていたが、それにしても・・・。
「ああ、何もかも建春門院世におわさば、かくばかり酷いお仕打ちがあろうとは思われませぬに」
時子には歎きは痛切だった。思えば法皇の寵女だった妹の存在がどのように法皇と平家をつばぐ強い楔だったか思い知らされて声もなくうなだれる。
このような入道さまの怒り、北の方の歎きの今までになき光景を見て、遠くの板敷に控えた阿紗伎には胸が一枚の板になるようだった。ついにたまりかねて進み出た。
「おそれながら、院にはすでに建春門院さまはおわさぬばかりか、いまや丹後局たんごのつぼねなる女性が勢いを張り、影の糸を引きおるものと思われまする」
「なに、丹後局とやらそれは何者か」
時子は初めて聞く名だった。
「院司、平業房なりふさの室の栄子でございます。女院(建春門院)さま世を去られて後、いつしか院のお傍近くに仕えて丹後局と名乗り居ります」
院司とは、法皇御所に仕える侍従長官で、清盛も顔見知りだった。
「なんじゃ、相模守さがのかみ業房はこの清盛と同じ伊勢平氏の後裔とて、院の御所に伺候のたびにねんごろに挨拶しおるわ」
「はい、うわべは平氏の一族顔をなされ、じつは腹黒きおひとかと存じます。同じ伊勢平氏の血を引きながら、入道相国さまは天下の権を握られ、ごじぶんは院の御所の近従のおさに過ぎぬと思えば、おのずと妬心としんを抱くもことわり・・・」
阿紗伎はすでにそうした情報を確実に捕らえているらしかった。
「おお、それで女院せられしを幸いとわが妻を院のお傍の女房に出仕させたのであろうの」
時子には、はっきりうなずけた。
「はい御推察通りでございます。その丹後局がこれまた夫の業房に数倍立ちまさる利者きけもの、すでに下心あって、もはや近頃は院の御寵愛を受けておりますやに・・・」
「えっ・・・そうもあろうのう」
時子は信じる。好色の法皇、院司の妻にお手がつくことなど驚くに足りぬと思う。その業房の室栄子はおそらく美女で才女であろう。
「ともあれ、このたびの院の御所存いかにも御無体むたい、この入道の胸は納まらぬ。即刻仙洞御所に参内さんだいいたさん」
清盛の憤激はますます抑えがたくなる。
「このような時刻に、お怒りを含まれての御参内などただ人の口のにあしざまに伝えられますだけのこと。それも天下の御政道の大事とはことちがい、近衛家の遺領お取り上げへのご不満とあっては、入道相国の御見識にかかわりましょう。たとえ白川殿盛子の所領は院領にお移しあるとも、幸い嫡子基通の相続せし分もあり、嫁がせし寛子の持参せし荘園もあるなれば今にわかに荒立てることもございますまい」
時子は必死となって良人の説得につとめる。これはおそらく清盛と結婚以来初めて、良人に向けて熱を帯びた諌言かんげんであった。
さすがに清盛は女ながら理路整然とした妻の言葉を鎮静剤として素直に服用する度量があった。それは彼の女性の精神尊重の気風にもよる。彼の好色の過程には必ずそれが伴った。亡き基盛の生母の貧欲に幻滅したのも、常磐に同情し、その子たちを助命したのもそれだった。
── 清盛が落ち着いたので時子はほっとしたが、さきからことの成行きにハラハラした阿紗伎は、
「丹後局の噂などよしなきことを申し上げて、入道さまのみ気色を損じ申し訳なく存じまする」
と深く首をさげてお詫びを申し上げる。
「いえ、いえ、阿紗伎がそれを口にしたも平家を思えばこそじゃ、なんの咎があろうや」
時子が言えば、清盛も今は悠然と構えて、
「なに、たかが院司風情ふぜいの平業房の妻が院の寵に甘えて小細工を弄するも、なんの怖るるところあるべき、もはやこの浄戒海入道は大きな身体を屈して後白河法皇の御機嫌を伺うにつとめる卑屈な態度には堪えられぬ。法皇のお気のままになさる院政とはかかわりなく、この入道は国家百年の後に残す大いなる事業に邁進まいしんするのみじゃ。経島きょうがしまの築港、音戸ノ瀬戸の開鑿、これみなわが平家の私事わたくしごとならで狭き国土を海原に開拓せんとの大望ゆえじゃ!」
意気昂然と清盛は胸をそらした。
「おお、それでこそこの時子が女の一生を賭けたお方!」
時子は眼がしらをおさえる・・・
その刹那だった。あわただしい足音をさせて弥五左老が駆け込むように現れて息をはずませて、
「只今小松殿(重盛)御館よりの急使にて、御容態思わしからず御吐血止まずとの事にてございます」
その言葉の終わらぬうちに、清盛はすっくと立ち上がって、
「馬に鞍置け」
輿こし牛車ぎっしゃもこの場合もどかしい乗り物、清盛は法体ほったい を馬上にして重盛の病床に駆け付けたかった。
重盛はこの春は遠路熊野に参詣したのに、初夏から食欲欠乏、最近は何を口に入れても嘔吐、今日は血を吐き続けるという・・・
その日から西八条、六波羅は憂色濃く打ち沈んだ。
── やがて七月二十八日夜、平家の嫡子さきの内大臣重盛は胃癌で逝去した。行年四十二歳、喪は翌朝発せられた。
2021/01/06

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