~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (二)
檜の簀子すのこの床から、白い湯烟ゆけむりがゆらゆらと簀子の透き間の数だけ幾十筋も立ちのぼるのが、やがて雲のようにひろがる。その蒸風呂に全裸の清盛入道が、元は装束筒の係、いま湯殿守の美濃六に背を洗わせている。
洗うといっても、それは真綿を巻きつけた細い竹箆たけべらを弓型にしなわせて背を幾度か上下にしごくのである。
天井も柱も床も入口の遣戸やりども檜造りのみごとな蒸風呂の構えながら湯気を立てる間は窓は開けず、昼も暗い大きな箱の中のようで、左右の柱の上高く取りつけてある青銅小型の灯籠の細い灯でようやく清盛の身体と青々とった頭が湯烟の渦巻く中に見えるだけである。
(このところ、めっきり肉付きが衰えられた)
と美濃六はしみじみと感じた。
(入道さまも、六十二のお年齢としよの)
と考える。それにしてもこの間までは、まだまだゆたかな肉付きで、お背に湯気の露がころころとはじけるようだったと美濃六は入道さまの肉体の弾力が弱られたとさびしい思いだった。
「近頃ちとお食が細られませぬか」
美濃六は小松殿世を去られてのお力落としで食欲とみに失われたかと案じる。
「そうもあろうか、ものの味などわきまえがたきほど、この入道心にそまぬ事のみ多くての」
「白川殿失せられて後、その御遺領をご無体にお取り上げの院のなされかたも、お胸をひろくなされて見過ごされたその後に御嫡男小松殿の御逝去・・・。入道さまのお心晴れぬもことわりと、数ならぬこの美濃六も御推察つかまつれど、まず何を置いても入道相国の御健やかにおわさでなんといたしましょう」
「おお、いかにもその通りよ。それじゃによって、かく湯気に蒸されて心の憂さを払い落すのじゃ。美濃六、いつものように背筋をもみほぐしてくれぬか」
「仰せまでもありませぬ」
美濃六は“お汗流し”の竹箆をかたわらに置くと、両手の指先に力をこめて、清盛の背骨の両脇を左右の指でくぼみの出来るほど強く押して上から下へとつづける。この美濃六の指圧療法が清盛にはことのほかこころよい。
「うむ。うむ。総身の疲れがとれてなんとも言えず心が休まるのう」
められて美濃六は、いつまでも指圧に夢中になってつづける。
「もうよい、よいぞ」
と清盛が言い渡すまで止めぬ。
それから蒸風呂隅の流し板の上に用意の温湯の桶から小桶に汲んで清盛の全身をきよめる美濃六に、清盛が言う。
「明日からは福原に行ってしばらく保養いたそう」
「おお、それは何よりでございます。この美濃六もおかげで福原の海で釣が出来ます」
湯殿守の彼は福原の館の蒸風呂にも仕えるために、いつもお供に加わる。
風呂を出られる入道さまを待ち受けていた若い近習両人が左右から湯帷子ゆかたびら(白麻単衣)を着せかけて濡れた身体のしめりを拭いとるまで帷子を幾枚も替える。
もうそこで美濃六の御用はすんだ。彼は蒸風呂の中を片付けると、わが起き臥しする雑舎の一間に帰って、明日出立しゅったつの旅支度を調える。それも湯殿守の身軽さで簡単である。
やがて灯ともし頃、これも一人暮らしの自炊ながら隅の棚には妻の汐戸がときおり届けてよこす魚の醤漬ひしおづけや、瓜の塩漬などの保存食の小壺がならんでいて、さらに醰酒たむざけの入った白磁の大瓶がどっしりと置いてある。
醰酒は後年の清酒に近い当時の特級酒で、冷泉れいぜい邸では酒豪のあるじ専用に備えてあった。北の方佑子がそれを大瓶で美濃六に届けさせる ── 「汐戸をわが許に取り上げて不自由をさせるお詫びに」という言葉が添えられる。
今宵もそれを夕餉ゆうげに少量口にすると、祐姫さまのいつも変わらぬお優しさがこもる醰酒の味はまた格別で、もうほろ酔い機嫌になる。
そして、明日の福原行きを前に今宵の中に妻の汐戸を冷泉邸に訪れねばと思い立った。
2021/01/07

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