~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (三)
── にわかに福原に立たれる入道相国の警護の軍馬が西八条に用意される中を出て、彼は冷泉万里小路までのこうじのその邸に向い、そこの台盤所のかたわらの小間に待つと、いそいそと汐戸が現れた。
彼女は北の方が西八条を訪れるお供の折りは必ず裏の雑舎に一人暮らしの良人をたずねていたが、良人の方から来ることは珍しい。
「おや、おや、これは嬉しいこと、この古妻の顔を見に来られたのかの」
「たわけたことを申すな、にわかに明日入道さまが福井へお出かけなので、あちらの小六郎に、そなたがいつぞや届けるものがあると言うたを思い出して取りに参った」
美濃六夫妻の孫小六は少年時代は六波羅の門脇殿(教盛)の馬の杓持小姓を勤めたが、その後騎馬の御供衆の侍に取り立てられて美濃小六郎と名乗っている。いまは教盛邸の若い侍女を妻として、平常は福原の教盛山荘に宿衛の武士団に居る。
「おうそれそれ、新しい直垂ひたたれに侍烏帽子を届けたいと調えていました」
直垂に侍烏帽子は平家武士の風俗である。
その孫への贈物の包みを奥から抱えて出て来た汐戸は、それを差し出しながら微笑んで言う。
「やがてはみごとな鎧、冑をその祖父じいどのから贈られるであろうが、祖母ばばからはこれよ」
「おう、心得た。いずれは甲冑に馬一頭を添えてやるぞ。この祖父は武士を望んだが入道さまお若き折からの近習としてお仕えし、重宝がって戴くが嬉しさのあまりついに弓矢を取る術も知らずして、装束筒棒持の職からいま御湯殿守として、入道さまのお肌に触れるおろそかならぬお役目大事と勤める甲斐あって、孫は平家の武士とお引き立て戴いたからには、この上なんの欲があろうぞ。入道さまにこの美濃六平太の一生は捧げまつるのじゃ」
「よう言われた。妻の汐戸は御姫入輿にゅうよにお付きして冷泉家へ。娘の安良井も七条度へ。ほんにあなたには御不自由をさせるも、みな御恩を蒙る平家の御為、ゆるして下され」
「なんのそなたと娘が姫君のお乳母として、ながの年月変わらずお仕えするのが、この美濃六ひそかな自慢の種よ」
と美濃六は満足そうに笑う。
「それにしても、小松の大臣おとど(重盛)先立たれて入道さまのお力落としはさぞかし・・・世間では平家を支える大きな柱が失われて行末が思いやられるなど口さがなきことをひそかに申すとやら、心外でなりませぬ」
西八条を離れて冷泉万里小路までのこうじのこの邸に暮らす汐戸の耳には、京の町のあちこちの蔭の声が耳に入ることもある。
「な、なにを愚かな、入道さまの御威光を妬む痴者しれもののたわごとよ。わしはいったい小松殿が父君に似合わぬ慈悲深き聖人君主との評判が気に入らなんだ。父君入道さまはお若き時から御先代にまさるお働きの功にて今日の平家隆盛を築かれた。その親の七光りを背に負われてこそ、大納言、内大臣にもの御昇進よの、それをお忘れか、何事につけても父君の御所業にさかしらに文句を付けられて、ご自分一人“いい子”になられるのはなんとしたことかと、この美濃六は心中ひそかに歯ぎしりしたものよ」
「これ、声が高い、人に聞かれたらなんとなさる」
汐戸は慌てて手を振って良人を制した。
「いや、まことの事を申すがなにゆえ悪いか、小松殿は御生前御自身の後世をとむらわせるために、宋の育王山とやらの寺に大量の砂金を寄進されたそうじゃが、これただ御一身の御功徳のみ、そてに引き替え、大相国さまは大輪田とまりの難工事もみなこれ国家の為にと莫大な私財を投じての御苦心数年に及ぶ、それをさとらで、長袖ちょうしゅう公卿が小松殿こそいみじき人とかめて、入道さまにはとかく白い眼を向けるはまことに笑止千万、盲目めくら千人の世の中とはよう言うた!」
ここへ来る前の晩酌をいささか過ごしたその酔いが発したらしい美濃六に、汐戸はおろおろして、良人が今宵せっかく訪れたので北の対屋の廊まで連れて北の方にも御挨拶をと思ったが、それもさせられぬ。
「明日のお供に備えて早う帰って寝られるがいい。福原でも口はつつしまれ、御酒は一しずくもなめてはなりませぬぞ」
と生い立てると、ようやく腰を上げた彼は立ち去りながらも大声を張り上げて叫ぶ。
「入道大相国さまはこの国に二人と生れぬ大人物よ!」
汐戸はそれを聞きつつ、しん・・とする。
わが良人が、さながら女が男にのぼせあがって打ち込むように、入道相国さまにはまったく身も魂もささげ切っていられる・・・そしてその妻のおのれもまた当家の北の方 ── 平家の姫ゆう子に身も心もささげて仕えるとは・・・似た者夫婦よと笑うより吐息が出る。
2021/01/07

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