~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (四)
白川殿盛子とあいついで嫡子重盛が亡き人となり、平家に凶事の重なった年の十一月に入ると、平家の姫典子の婿七条殿信隆の老病はきびしい寒気に重くなっていった。
主治医菅原寿泉は名医の評判だが、典薬寮などの窮屈な宮仕えを嫌って大衆相手の医師に甘んじ、信隆とは気の合う友人だった。
この寿泉がその頃のある日、来診しての帰り北の方の典子にひそかに告げた。
「御病人には御心残りなきように計らいおかてて下され。いまのうちにされたき事あらばすみやかに・・・」
それでなくても典子は良人の長い病臥に、すでに覚悟もおいおいに出来ていた。西八条の西の対の甘えっ子のやんちゃの姫であることは、もう運命が許さぬ立場だった。
「典さまのなんと頼もしき方になられたことよ」
時折、信隆の病気見舞いと典子を慰めに見える冷泉北の方も、此の頃は妹姫の精神の成長に眼を見張る。
寿泉の宣告を受けた日の夜、典子は信清と共に病臥を見守っていたが、ふとさりげなく言った。
「ながらくの御病臥ではさぞご退屈、お気もむすぼれましょうゆえ、お気晴らしによいことを思いつきました」
「おお、それは何か」
「かねて延清どのと婚約を結ばれし藤原定能卿のむつ姫との婚儀、御病中なれどせめてお盃事なりと挙げられてはいかがでございましょうか」
この邸が先年火災に失われた折りも、典子は西八条へ、信隆父子は親しい定能卿の邸宅に再築まで身を寄せた。その間に定能の次女睦子と若き信清の間に恋は芽生えて、やがて婚約が成ったのだった。睦姫生母の定能北の方は右少将源通家むすめで申し分なき家柄の縁組であった。
「うむ、いかにも信清の紺頼を見ずに世を去るのは心残りであった・・・信清いま母上の仰せのように致すがよかろうぞ」
信清も病父の望みにうなずく。
── まもなくの日、花嫁の衣裳を身につけた睦姫を伴って、藤原定能夫妻と乳母が七条殿の病室に現れた。その病父の枕頭には礼装の婿君信清が母の典子と待ち受けて迎え、その仮祝言かりしゅうげんの座には更科と安良井と信清の傅役もりやくの老家従だけが列して、いとも静かな盃事が行われた。
「信清も睦姫も幾千代かけて、たのもしきめおと・・・となられよ。もうこれにて世に思い残すことはない。ただ心にかかるは、これなる七条北の方をまだ若き身にて寡婦となすことよ。あわれにいたましく入道相国御夫妻にも申し訳なし、歎けどもせんなきことながら・・・」
病にやつれすがれた信隆の頬を涙がとめどなく伝わる。
その時、定能卿北の方は声はげまして、花嫁の姿のわが娘に言われた。
「今日より実家の父母は忘れて、七条殿をおもうさま、七条北の方をおたあさまとしいぇ心よりお仕えなされよ」
父を“おもうさま”母を“おたあさま”と言うのは古来の御所の言葉である。若宮(親王)内親王方は、父帝が母屋もやにおいでなので“御母屋さま”と呼ばれたのが“おもうさま”となり、母后は対屋たいたにお住まいなので“お対屋さま”が“おたあさま”と転じたが公卿の家庭にも貴族言葉として伝わったのだった。
武家あがりの平家ではこれは使わず、典子の嫁いだこの修理大夫しゅりだいぶ家もその舌だるい言葉を信隆は嫌ったがそれは例外で、この信清の花嫁の実家の藤原定能家のみならず花山院、近衛、冷泉のしきたりはそれだったが、平家の姫たちは婚家から西八条を訪れるとわが父母には用いなかった。
「おたあさま、不束ふつつかながら末長くお仕えさせて下さりませ」
と睦姫にしとやかに手をつかれると、若いしゅうとめの典子は宙に浮いたように奇妙な気持になる。
娘の殖子は帝の皇子の御生母となり、息子の侍従信清の妻は公家に典型的に育った人、これからは今までの七条家の文人墨客趣味の超俗的な雰囲気もちがってゆくと典子はさびしかった。
そしていまさらに名利を求めず風雅な生活に徹した良人信隆との永別を覚悟せねばならぬのが怨めしかった。
── 信清の結婚はこうして病父の枕頭で盃事を行ったが、明日をも知れぬ父を抱える花婿の許へ華やかな輿入こしいれなど出来ようはずもなく、花嫁は仮祝言のあとは実家にまだ起き臥しして、ときどきしゅうと の病を見舞いに訪れるだけである。
2021/01/08

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