~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (五)
その月の十四日の朝であった。
七条家でその朝、病臥の主のためにせんじる漢薬を主治医寿泉の許に取りにやった家僕が慌しく顔色を変えて駆け込んで帰って来た。
薬湯やくとうを煎じる役の安良井の傍に更科が漢薬の包みを持って現れて不安の表情で告げた。
「ただいまこのお薬の使いが申しますには、京の町なかはただまらぬ騒動にて、民家の者たち家財を運び出し背に荷を負うて洛外にのふぁれゆくそうにございます」
「それは、どこぞに家事でも・・・」
「いいえ、いいえ、それどころか、京の町でいくさがあると皆おびえて逃げるとのこと、福原から入道大相国が宗盛さまと数千騎の軍兵を率いられ、砂烟をあげて攻め寄せられたと申します」
「えっ」
安良井は薬湯を更科に頼んで奥の病室に急いだ。
良人の枕もとに付く北の方典子は、廊下にひざまずいた安良井がもの言いたげで口には出せぬようすを見せるので、そっと立って病室を出ると、あたりを憚るように安良井は更科から耳にしてことをお伝えする。
── 福原で保養中のわが父清盛がなんのためにそのような兵を率いて京に・・・典子は驚くばかりである。
「そのような騒動を御病床の殿にお聞かせしてよいものやら」
典子のこういう場合に相談すべき信清は今日は御所に出仕である。父の病気とて息子が一日でも欠勤するのを許さぬ信隆である。
「何はあれ、平家の軍勢京に溢れたとて、西八条の姫君御入輿先のこの邸にわざわいを及ぼすはずはございますまい」
安良井はその点で安心もする。
「みなの者にもそう申して心落ち着け安堵いたすよう申し渡すがよい」
「は、心得ました。ただいまお薬湯を御病室に」
典子は病室へ戻ったが、なにか心落ち着かぬ。邸の者へは安堵いたせなどと立派なことを言わせたが、自分は胸騒ぎがする。
京に起きた保元、平治の戦乱は遠い昔の伝説となっているが、そのような乱がわが父の軍勢によって引き起こされるのであろうかと・・・。
2021/01/08

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