~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (七)
福原から大群を率いて京に入った清盛は、その平家の兵力を背景に、法皇に強固な奏請を行い、顕職の公卿三十九名を罷免、関白松殿基房を備前に、太政大臣を尾張に配流の宣告があった。
同時に二位中将でまだ二十二歳の近衛基通が関白内大臣に任ぜられ、華やか院花山院兼雅は正二位に位階進み、冷泉院隆房は近衛中将に進んだ。いずれも平家の婿である。
こうした処罰と昇進の発令されたのは十一月十七日であった。その同じ日の夕刻、散位さんに(位階あって官職なし)信隆は眠るがごとく老衰死をとげた。残された妻典子は二十一歳、その実子隆清はまだ三歳だった。
遺言に従う密葬とは、遺族と結縁の人々だけで簡素に弔うのであるが、その縁戚の人たちをさえ葬送に呼ぶのを憚らねばならぬと未亡人典子と喪主の信清が憂慮したのは、いま都下は清盛入道の軍団によってさながら戒厳令下の状態だったからである。延暦寺、園城寺おんじょうじの僧兵が大挙して法皇方について反平家の動向があると噂がひろまったゆえで、洛中は人心不安で店舗も人家も戸を閉じ、昼も女子共の通行の姿は途絶えるありさま。この時に、花山院、冷泉、近衛の北の方たちの糸毛車の外出などもってのほか・・・と、騒動のすむまでは喪を秘めることに典子や信清が決断した。それでもあすがに西八条の母時子と、信清の妹中納言内侍のもとにだけ、ひそかに使者で信隆の逝去を告げ、この際きわめて簡素な密葬を明日行うゆえ、一切御配慮なきようと言い添えた。
すると間もなく騎馬武者くつわの音高く七条邸の門に入った。その馬上の武者は美濃小六郎、未亡人典子の父兄弟で母は典子の乳母安良井である。
鎧下の直垂に侍烏帽子、腰に太刀を帯び颯爽さっそうと典子の前に現れた。
「このたび散位信隆卿御他界のこと、二位さま(時子)のお歎きことのほかにて『典子があわれ』と御流涕遊ばされ、さっしくにもかけつけたきに、折も折、平家にとりてこの非常時、西八条をかたときも離れ難き身なれば、乳兄弟の小六郎そなたが参りてねもころにお悔み申し上げ、明日の御葬送の警護もいたせと仰せつけられました」
といつのまにか、ひとかどの平家の武士らしい凛々しい口上こうじょうに典子は涙さしぐまれる。
「いま安良井をここに呼ぶゆえ会うがよい。どのように喜ぶであろう」
「いいえ、御取込み中おさまたげはいたしませぬ。明朝早く警護の兵を伴い参上つかまつります」
彼は仏前に礼拝するやさっさと立ち去った。彼は福原の門脇殿(教盛)山荘の宿営武士だったが、その地から清盛の大軍で押し寄せる騎馬隊に入って西八条にいま清盛の親衛隊として逗留中なのだ。
翌十九日はの刻(午前六時)冷たい雨、ようやく上がるのを待って七条家からひそかに出て菩提寺ぼだいじ阿弥陀寺に向かう棺の輿こしを白衣の雑色たちがかつぎ、そのあとに信清が幼い弟隆清を抱えて牛車、つづく車に盛子と信清の新妻睦子が同乗、その車の左右に家従たち、そのまことに少数な密葬の列のしんがりを騎馬の小六郎が雑兵十名を率いて警護に付く。
その列が邸の門を出る時見送る安良井は、わが子小六が小童の頃、七条の町通りを見にお忍びで出かけるのに小犬を連れてお供した姿、竹笹の竹馬にまたがって遊んだ姿が思い浮かんでそれが竹ならぬ生きた馬に鞍を置いて・・・と感慨無量で、一眼祖母の汐戸に知らせたかったあまり、つい喪を秘める禁を破って、下僕に文を持たせて冷泉家の汐戸に届けさせた。
文を見て汐戸は仰天した。とうてい黙ってはいられぬ。北の対へ足を急がせて北の方に申し上げねばならぬ。
「まあ、この騒がしく常ならぬ折りとて、ひそかな今日の御葬儀、典さまのお胸の内はいかがでしょう・・・乳兄弟の小六郎が警護に参じたはせめてものお心やり・・・典さまもせめてこの佑子にはお知らせ下されたなら、すぐにも伺ってお慰めいたしたものを・・・」
典子を怨まずにはいられない。
「殿にも七条家の御不幸をお耳に入れてはいかがでございましょう」
汐戸が言った時 ── はるかへだたる表の間から隆房が酔うといい気持で首を振りながら、だみ声で唄うれ歌が聞こえてくる。当時の今様には王朝文学の香気がこもるが、白拍子との酒席に乱れる男たちには卑俗な浮かれ節が用いられた。
隆房は右中将昇進の祝盃を今日も朝からあげて、出仕の刻の遅れるのも忘れて浮々とそれを口ずさむのであろう。そのような良人に義妹の不幸を告げても、なんの哀悼の思いもなく、むしろ自分の生きている実感へのよろこびに堪えぬよう盃を重ねるであろうと ── 佑子は思うのだった。
2021/01/09

Next