~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (八)
清盛が兵団を従えて福原から突然に西八条に入ってからの日々、妻の時子は良人と顔を合わせることもろくにないほど、清盛は猛り、没頭し、緊張をつづけた。
そうした良人へ、典子の婿の死さえうっかり告げられぬ。いま清盛は全身の精神を打ち込み、まなじりを決して、一大事決行の身がまえで、馬るれば馬を斬り、人触るれば人を斬る・・・とばかり、おもてを向けがたき感じだった。その良人をさまたげぬように時子は息をひそめて北の対屋の奥深く籠っていた。
“政治権力上の闘争”という男の世界の凄まじさに、女はすべきわざもないのが口惜しかった。
それだけに彼女は良人のこのたびの日々の行動を知らずに、あっけらかんとしている妻にはなれなかった。
「院と入道さまとの間にこの上なにごとかあらば、すみやかに知らせてくりゃれ、頼むぞえ」
と西八条の奥宰領の難波弥五左衛門に申し付けてある。
十一月二十日のの刻(午前十時)その弥五左が北の対にまかり出て報じた。
「福原よりの軍兵今日初めて六波羅より出動いたし、法住寺殿に向かいました」
向かったところは法皇御所である。聞くより時子は色を失った。この日頃ひそかに怖れていたことがついに来たか・・・法皇に武力行動をとれは平家は逆賊となる。
その時子のふるえおののく胸のうちが弥五左と傍に控える阿紗伎にも手にとるように通じるから、阿紗伎が進む出た。
「御安堵なされませ。平家の兵がいかで仙洞御所に矢を向けましょう」
そうまことしやかに言うが、時子は安心はせぬ。
「矢は放たずとも、それはとりもなおさず御所を軍兵で取り囲んで何事か院に奏請するのであろう」
時子は法住寺殿の周囲に平家軍団がひしめめくのは、法皇への威嚇いかくだとさとる。
つい先の日にも法皇に迫って、関白太政大臣以下三十九人もの官職を取り上げて、あちこちに遠流おんるしたのに、その上今度はさらに何を入道さまは望まれるのかと思い惑う。
「ただいま六波羅より伝えられたところでは、院はにわかに鳥羽離宮に御幸のよし・・・」
弥五左がそう言いかけた時、あわただしく次女二、三人がかけつけて、
「申し上げます。ただいま入道さまご帰館あそばされました」
その声の終わらぬうちに、近習を供に清盛の姿が現れる。
「おお、ようやく北の方の顔をゆっくり見るのう」
彼は妻の前にどっかり胡坐あぐらをかいて、
「やれやれ、福原から兵をひき来ってより、今日で六日目であるが、これで何もかも疾風迅雷しっぷうじんらいのごとくすみやかに処理いたした。日頃の鬱積うつせきくまなく晴れて、さてもここちよや、ここちよや」
胸を反らして、いかにも心地よげに清盛は、阿紗伎がささげ運ぶ宋渡来の茶の一椀をしずくも残さず飲みほすと、にこやかに笑みを含んで、弥五左や近習に、、
「みなさがるがよいぞ、これから北の方と睦まじゅう語り合うによって」
「ホホ、なにを仰せられます」
時子も六日目に初めて緊張が解けた。
2021/01/09

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