~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
風 立 ち ぬ (十)
反平家派を粛清、方法を離宮に幽閉した直後に軍兵と共にまた福原に帰った良人が妻の許へ戻ったのは、翌十二月の下旬だった。
「そなたと揃って元旦は迎えたいからの」
そうにこやかに言うのを“殺し文句”とのみ時子は笑えなった。
先月の六日間の烈しい行動のあとを福原で休養中の日々に、良人はふっと激動のあとの“孤独”襲われたのではないかと察する。
「しばらくはごゆるりとなされて京の初春をお迎えなされませ」
「その前に典子を訪れて悔やみを言うてやらねばならぬ」
優しい良人、あたたかい父のこの人が、外の世界では法皇をも幽閉する、もうひとつの強い顔を持つとは・・・男とは複雑怪奇なものと時子は思う。
── まもなく治承四年(1180)の新しい月日が始まった。
その年の最初の出来事は高倉天皇の譲位だった。皇太子言仁親王は三歳の安徳天皇になられる。
これで清盛夫妻はついに天皇の外祖父、外祖母になった。
おんいたつき(病)もあらせられぬに、あまりにもお早き御譲位とは、これは入道さまの御奏請ではございますまいな」
時子はそれが気がかりだった。
「なにをおろかな」
清盛は一笑に付した。
けれども時子の推察は、高倉帝の御譲位は父君法皇に対する入道の悪感情をいささかでも和らげようとの思召しによると思われる。
「帝も御譲位にて上皇となられてこそ、院政によって初めて政治の実権をお持ちになられるとあらばむしろ御本懐であろう」
と清盛はまことしやかに言うが、時子はそれを良人の気性に不似合いな詭弁だと思う。二十歳の若き上皇が慣例の院政を執られるとて、それは形ばかり。実際には院政の名の後ろに隠れて入道相国の独裁政治が行われるのみと時子は知っている。けれども後白河法皇のあのお気ままなあまりに感情的な御院政より、わが良人の広い視野による政治方針がこの国にとって幸いするのではないかと、やはり良人びいきにはなる。
御譲位間もなくの三月上旬に、高倉上皇は厳島へ御幸を仰せ出された。平家一族の信仰あつきその神社への御参詣も世間の陰の声は“入道相国へのおつきあい”と、お気の弱い上皇がなにかと清盛との親睦をはかられるのに、義憤を込めて同情する。
その御幸を機会に園城寺の僧兵たちが大挙して幽閉の法皇を救出、上皇を奪回する計画が流れ伝わった。
上皇は御幸の前日に西八条の館を宿所とされて翌暁御出立であった。厳島への途上とお帰りを清盛は福原でお迎えしてその地の風景を御案内する予定で、彼は西八条は妻に任せて御幸前に福原に去った。
清盛夫人二位局が全責任を帯びて西八条で上皇をお迎えおもてなしするとあった、その館に仕える弥五左や阿紗伎、西八条の侍たちは、緊張してその準備につく。
時子はかつてこの西八条に十一歳の高倉帝をお迎えした日を思い出す。あの時は東西の対には、すでに盛子につづいて昌子が嫁ぎ去ったが、まだ四人の姫が華やかに起き臥ししていた。その四姉妹は乳母たちが競い合って選んだ晴れの衣裳に身を飾って、帝へはじめての謁見をした。
姉妹はやがて、佑子が冷泉家へ、徳子は入内して中宮に、寛子は近衛家へ、また末の典子が七条修理大夫へそして早くも良人に永別・・・時子は感慨無量である。
それにつけても、その時帝に拝謁の四姉妹に、このたびの西八条への御幸をお迎えさせたいと時子は願う。が、徳子は中宮で後宮にあるから西八条で謁見の必要もない。寛子はいま春の風邪で引き籠り中という。末の典子は良人の喪に服している。冷泉家に嫁いだ佑子だけが当日お迎えに実家へ来られる。しかも良人の隆房中将は厳島へ供奉の武官である。
── 三月十八日、西八条の館は上皇の御幸を迎えた。その日の御幸は近臣数人が従うのみで、外は平家の武士団が上皇の唐廂からひさしの車をひしめき囲んで警護している。かねて噂の園城寺僧兵の襲来に備えてだった。その非常の警戒の為にも、厳島へ供奉の公卿たち、女房たちが車を連ねる慣例を止めて、近衛府の随身(警護の士)や隆房中将ら、いずれも供奉者は明朝のまだ明けきらぬほの暗き刻に西八条総門に終結して上皇の車に従い、平宗盛、重衡のひきいる六波羅武士の騎馬に守られて下鳥羽の草津から上皇御召しの船団に乗り込む手筈だった。
2021/01/11

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