~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
一 粒 の 種 (一)
以仁王は法皇の第三皇子、母は大納言藤原末成すえなりの女、学問、詩歌にすぐれていられたが、父法皇の寵女(建春門院)が第五皇子憲仁のりひと親王(高倉帝)をあげられるや、その嫉視をうけてついに親王宣下せんげもなく、以仁王とか、その御所の三条高倉にちなんで高倉の宮とかよばれて不遇のうちに三十三歳になられた。
その年来まで親王の宣下もなく、帝位は第五皇子に譲られて、むなしく埋木うもれぎの憂悶の生活に沈む以仁王の怨恨が平氏に注がれるのは当然である。
以仁王をうとんじた女院は平清盛の妻時子の妹である。その義妹のした皇子を帝位につけた背後には清盛の勢力が強く影響しているのは言うまでもない。
けれどもその怨恨はただ歳月と共に胸にくすぶり続けるのみで、薄幸の運命の皇子として三条高倉御所に生けるしかばねの心境で管弦、詩歌に悶々の情を紛らしていられた。
その不運の皇子の抱かれる怨恨に火を付けて燃え上がらせたのは源頼政だった。彼は清和源氏の系統ながら平治の乱では途中から清盛の軍に大義名分ありと加わって血族の源義朝を敵として戦い、その後は宮廷警備の武士として七十あまりに老いていたが、彼の深層心理には平家全盛の世にあって、屈折した違和感があったにちがいない。
清盛が昨年関白太政大臣以下三十九人を追放、そのあと官職を平家一門で占め、法皇は幽閉と言う一大事件で平家横暴の輿論よろん起ると見ていた頼政は、翌治承四年三月に高倉上皇厳島御幸で平家一門こぞって供奉、朝臣の多くも御幸に従い京都を留守にしたを好機か会と、三条高倉の以王の御所に人眼を盗んで暮夜ひそかに参入して、平家打倒の壮挙を熱誠を込めて宮におすすめした。その甲斐あって宮がついに、伊豆の流人頼朝を初め、諸国の源氏の諸流、摂津の源氏、嵯峨源氏の渡辺党、木曾の義仲と源氏の流れを汲む武士を平家討伐に蜂起させるために授けられた令旨は、清盛とその従類の暴悪を誅伐せんとす。源氏一族合力ごうりきせよという意味の状であった。
それを諸国の源氏のゆかりのある士に伝える使者として頼政が推薦したのは、平治の乱の敗亡はいもう後、紀州熊野の新宮にかくれ棲んで、つい最近京都に下僕を伴って出て来ていた源行家、義朝の弟であり、日頃源氏再興の悲願を抱いて彼こそもっとも適任者であるとした。
行家が勇躍して令旨廻宣に旅立つに際して、熊野に残してある妻子の許へ帰す下僕に、「行家は以仁王御所の蔵人くろうどとなり用務を命じられてしばらく諸国を巡る旅に出る」と伝えよと言い含めた。
そして彼がひそかに京を出立したのは、皮肉にも高倉上皇が厳島から福原に御滞在後都に還御された日の翌日の四月九日の朝まだきである。上皇厳島への御幸の間の十三日間に以仁王を励ました頼政七十七歳の老いの一徹は成功したのである。
行家が近江、美濃、尾張と源氏の一派に令旨のおもむき伝えてようやく伊豆の流人頼朝を訪れると水干すいかんの衣裳に改めた頼朝は、はるかに男山八幡宮を遥拝、謹んで披読した。
行家は伊豆に一泊して、さらに木曾の義仲の許にと出立した。
── 紀州熊野に帰った行家の下僕は主人の命じた言葉を行家の妻に伝えた。そしてなおわが主が以仁王の蔵人に出仕てその御用で旅に出たのを源家の誇りとして、その他の源家びいきの者に語り聞かせたらしい・・・。
熊野神宮には平家の信仰あつく、清盛、重盛もはるばる参詣に出かけているので、平家の恩を蒙る本宮の別当湛増たんぞうは、この地に密かに棲んでいた源氏の落ち武者同然の行家がにわかに京で皇子御所の蔵人になり諸国の旅へ出たとの噂を怪しんで、おいを密使として福原山荘に滞在の清盛の許に走らせた。
そうとも知らず、行家は信濃路へ向かっていた。伊豆の流人の頼朝は妻政子の父の北条時政に以仁王令旨の件を打ち明けて相談せねばならなかった。いま平家討伐に立つとて、頼朝自身は流人の身一兵も持たぬ。万事は岳父がくふ時政の援助によらねばならぬ。時政はすぐに動くような軽率ではない。
2021/01/12

Next