~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
一 粒 の 種 (二)
五月十五日に福原から清盛が大軍を率いて京に入り、平家の軍兵ぐんぴょうは京都に満ち溢れた。
まや何事かと洛中の人々は恐怖、去年の十一月のように人家は戸を閉ざし、女子供は外にも出ずの状態となった。
七条坊城の亡き信隆の邸でまだ良人の喪に籠る典子は、その日の京の騒動を聞くにつけ、去年の父清盛のクーデター敢行の最中に死を迎え悲しくもあわただしい思いに暮れたのを思い出す。
今日も京洛は殺気立つ軍馬がひしめくが、それは平家の武士団とてこの邸になんの危険もないとは思うが、それにしても、昨年もまた今年もいつ福原から父が軍勢を率いて突然に京に入るような不祥事の突発するのが、父のためにも平家一門のためにも不幸なことだと心が沈む。
── 去年こぞのあの日も病む父と母を案じて信清が早目に御所から帰ったように、その日も彼は帰るなり別棟の妻の睦子との新家庭の館にも立ち寄らず母のもとへまず先に姿を現して、やや沈痛な表情で告げた。
「以仁王平家に御謀叛でございます。それゆえに福原より入道相国軍勢を従えて御入洛なされました」
「まあ、以仁王はお歌に優れられる式子内親王の兄者、やはり管弦に詩歌にと風雅におすごしと伺いましたに・・・」
法皇の第三皇女式子内親王と以仁王とは共に播磨局を生母とする同腹の兄妹である。
「源頼政が以仁王に御謀叛を強くおすすめしたゆえと承りました」
高倉帝の侍従信清は、上皇になられてからも出仕しているから、そうした情報には通じていた。
「えっ、源三位げんさんみ殿が! 平治の乱には源家の人ながら平家に付かれたよしみにて、父君は親しまれ、昇殿のお許しも父君の計らいだとのこと、かつてながらく正四位にとどまるのを歎かれてお歌を詠まれ・・・」
「そうでございました ── のぼるべき たよりなき身は のもとに しゐをひろひて 世をわたるかな ── それを聞かれて入道相国はつい先年の除目じもくに従三位に叙せられるよう計らわれたのでした」
「父君はそのように優しいところがおありなのに、その頼政殿が・・・」
典子はまんまと裏切られたわが父のお人好しが憐れまれた。娘としては父をひいきにせずは居られぬ」
「しかも、入道さまはその頼政殿を謀反人の張本人とも御存じなく、頼政殿に命じて以仁王を土佐に配流のために三条高倉の御所につかわされたとのこと」
「まあ、父君のなんとうかつな!」
典子はわが父が人を信頼すると、どこまでも信ずる寛濶さが好ましかったが、さりとてうかつな、だから法皇にも裏切られ、そして源頼政にも・・・歯ぎしりしたいほどである。
「憎きは頼政、さっそく以仁王の御所に駆け付けて王の御逃亡お助けいたし・・・平家の軍兵が御所に参った時はもう間に合わず、いまも王の落ちゆかれた先を捜査中とのことでございます」
「ああ、ほんとに父君のあまりに歯がゆいこと、嫌い!」
典子は昔のやんちゃな小姫ちいひめに返った。
── 以仁王が園城寺おんじょうじの僧兵に守られているのがようやく発覚したのは、それから数日経てのことだった。
2021/01/12

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