~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
一 粒 の 種 (三)
五月二十八日、陰雨いんういちにち降り止まず、少納言局の少外記しょうげきの個室はさらぬだに昼なお仄暗いのに陰気な雨の日は机の上の文書の文字もさだかではなかった。
「広元殿・・・」
と声も足音も秘めて人眼を忍んで同僚の康信が机の傍に現れた。
「まだおおやけにはされぬが、今日おしのびにて高倉上皇には六波羅におもむかれ、頼政とその子息たちの首級を御覧になるそうじゃ」
康信はもの悲しい表情だった。
「さては清盛入道、平家に反逆の徒はすべてかくの如き末路よと、上皇を威嚇するかのようではないか」
広元はほろ苦く冷ややかな微笑を冷徹な顔に浮かべた。
「うむ、それもあってであろうか、供奉した殿上人の腰抜け公卿の肝をつぶさせて、万が一にも反平家派にくみすれば首を失うを覚悟とふるえあがらせる教訓でもあろうか」
── 園城寺は攻め落とされ、以仁王も明光山の鳥居前で流れ矢ではかない生涯を閉じられた。
「広元殿、以仁王の壮挙もむなしく、あずか十日余りで消滅だった・・・これにかんがみてもわれらこの世に生きる間に源家によって平家討伐などは虚妄の夢に過ぎぬかも知れぬ・・・」
萱を落して意気消沈の康信はまったく打ちのめされた姿だった。
その肩を広元は両手でゆさぶり、だが声は用心深くひそめて、
康信殿はあまりにも気弱い同志よの。われら両人が男の生涯を賭けたその夢はまだ潰れぬはたしかじゃ。このたびの以仁王も頼政殿も、平家討伐の時代を実らせるための、一粒の種子と地に落ちられたのではないか!」
広元の冷然とした態度からの言葉は強かった。
「さりながら・・・いまや平家の軍平は王の令旨を受けた諸国の源氏やそてに応ずる寺院の衆徒(僧兵)をことごとく追討捕縛、梟首きょうしゅに処すと草に根を分けても全国に捜索の網がmrぐらされるという・・・伊豆の佐殿すけどのもっとも危うし。、すみやかに身を隠されるよう、さっそくに報知せねばならぬ。直ちに、弟康清を山伏姿になして伊豆に遣わす所存 ──」
康信の弟康清は図書寮の下級な小吏を勤めていたが、伊豆の頼朝との秘密の文通の露見を怖れて近頃は弟にその職も辞させて、伊豆への密書の使いに待機させている。
「佐殿が伊豆より逃亡されたとて、全国の平家の知行国(支配地)三十余ヵ国というに、いずこに身を安全に置かれ得るや、それよりいっそ窮鼠きゅうそ猫をむ、背水の陣に出られて、以仁王、頼政殿の種子を実らせるが、ただ一つ佐殿の生くる道と思うが・・・」
そう言う広元の冷静な判断の言葉も、康信にはそれが虚妄の夢に賭けると思われる。
「しゃが・・・いま みだりに佐殿動かれては危うかろう」
「伊豆の北条時政とは並みならぬ御仁であろう。平家全盛の世に源氏の流人を婿にせしからには・・・一兵も持たれぬ佐殿をいかにして旗上げさせるか思案があろう。とは申せ、このたびの以仁王御謀反の水の泡と消えし御最期その他の情況をお知らせするも肝要、その秘密の書状は手落ちなく伊豆へ御舎弟に託されよ」
「さよう計らうのが、この際せめてもわが身に出来ることじゃ」
「佐殿は常に貴君の忠実なる通報の功に感謝されるであろう。じゃがこのたびの頼政敗北の一件は佐殿は身辺の岳父や源家累代の御家人ごけにん以外には秘せられるであろうな。すでに以仁王の令旨えお伝えられた諸国の源氏一族の戦意を喪失させる怖れがありからな」
広元の言葉はまったくだった。もう康信は以仁王、頼政の戦死で意気沮喪そそうしている。
「それでは広元殿は、このたびの王と頼政の悲惨な失敗を知ってもなお佐殿の源氏再興はあくまで強しと見らるるか」
「たしかに! 朝廷と権臣の摩擦の歴史はいつの代も繰り返されている。かつて天下の権を握りし藤原の全盛を抑えんとて、院政時代来り、源平の武士団が重用された。しかし源氏いささか隆盛と見るや平家をして抑えしめんと後白河法皇の清盛公への傾斜はそれだった。しかるに源氏亡びてひとり平氏の天下となるや、その平氏を牽制けんせいされんためにはふたたび源氏を盛り立てねばならぬ。これが御自身では武力を持たれぬ皇室すなわち法皇の御結構(政略)よ、さればこそ今や源氏に与えられる千載一遇の好機会、佐殿それを覚られぬような人物なら、われらの生涯の夢は水泡に帰するだけよ」
広元に、声を低く、噛んで含めるように説かれて、康信の顔にさっと生気がのぼった。
「伊豆に二十年雌伏の流人佐殿、それがわからぬような凡人ではござらぬわ」
「それじゃによって康信殿、われら男一生の賭けはまだ終わらぬぞ」
広元は眉をあげて、盟友の肩を叩いた。
雨に暗いその少外記室で二人は火の燃えるような眼を無言で合せた。
2021/01/13

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