~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
福 原 た よ り (一)
清盛から遷都の決意を聞いた翌日、時子は供まわりの者もきわめて簡素に目立たぬようにして、阿紗伎を連れ、牛車を七条坊城の亡き信隆邸に向けた。
若い未亡人となった典子は、溺愛した末姫のこととて、いつも母の心にかかったいる。
時の訪れたその邸は、喪にこもるためかしいんと静まっている。
典子と安良井に迎えられて庭を見渡す表の間に通った時子は、まず驚かされた。
「これはいかにしたこと、この庭になくてはならぬ美しい鶴が一羽の影も見せぬとは」
「生きものを放つは亡き方への供養と、池の浮き巣も金網のおりもこわして空に放ちました」
典子は落着き払って答える。
「まあ、なんと思い切りのよいこと、さりとてあの鶴たちは亡き方のお遺品であったものを」
母の惜しむ顔を見て、
「先頃の以仁王の御謀反の騒動に典子は肝を冷やして以来・・・世の中にはいつなんどき思いがけなき騒ぎが起ろうも知れぬと思うと、人手をかけて鶴を飼うなど長閑のどかなことはあるじなきあとは慎まねばならぬと存じましたゆえ」
きっぱりと言う典子の顔をじっと見入った母は、これがあの西八条ではやんちゃで我ままいっぱいに振舞って怖いものなしの小姫だったのかと戸まどいをさせられる。
「鶴のために数多かった園丁たちにいとまをつかわし、古参の更科や侍女たち、家従の者も数人、別棟の信清夫妻のもとに仕えさせました。信清はこれから立身出世の身ゆえ、多少は華やかに身辺を飾らせたいと思いますれど、もはや典子は隆清の立派な成人を見るまでは手堅い暮しをいとまねばならぬと心得おります」
時子はただ感歎して言葉もなかった。さっき邸へ入るとしいんしいんともの静かだったのは喪にこもるだけでなく、邸内の使用人の数が少なく減らされたからと知った。
この七条家は主が逝去してからとて、けっして困る財政ではない。蓄財もゆたかに伝来の荘園もある。それをこのように典子が健気けなげな生活設計に敢然と踏み切ったのは ── 以仁王の平家討伐のあの事変から強い衝動を受けたからだと知ると、母の時子の方がうかつ千万の気がして、負うた子に浅瀬を教えられるようで身が引き締まる。
「典子、今日この母がにわかに訪れたのは・・・このたび福原へ都がうつされるについて、それを知らせに・・・」
「さような儀は父君がおはからいのこと、信清が申して居りました」
朝廷へも清盛はすでに申し上げてあるから、上皇侍従の信清は知っていたのである。
「帝も仙院(法皇)、心院(上皇)とも福原に御幸、この母も入道さま(清盛)と共に供奉いたします」
「それはいつの頃でございます」
「入道さまの御気性とていったん事さだまれば直ちに、六月二、三日頃はもう京を発輿はつよと昨夜伺いました」
「まあ、なんとあわただしいこと!」
典子は呆気にとられた。
「まことにあわただしき都移りとて、皇居も院の御所の造営も間に合わぬこよとて、それぞれ平家一族、山荘の客殿にお迎えいたすよし」
「朝廷はその地にお移りになれば、いずれ朝臣、殿上人も新しき都に棲まねばなりますまい」
典子は母の言葉に大きくうなずいて、
「それはもとよりのこと、このたびの鳳輦ほうれんと共に摂政(近衛基通)も、隆房中将も福原にわたるゆえ、ゆくゆくは冷泉家、花山院家も移り棲まねばなりませんが、佑子も昌子もいずれもお子たちもあり、福原に新邸を造ってからとなりましょうが、寛子はわが子もなく身軽ゆえ、この母と共に京を立ちます」
2021/01/14

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