~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
福 原 た よ り (二)
摂政近衛基通に嫁いだ寛子は、いちその流産後ついにわが子は生れず、嫡子家実は良人が通った治部卿顕信の女から生誕、次子道経も兵部卿信範の女からで、どちらもその生母の実家で育てられている。
そも心さびしき妻のわが娘を憐れんだ時子が、寛子の良人が帝に従って新都に移るを幸いと同伴させるその母心が、よく典子には理解出来る。
「母上さま、この典子も寛さま同様いたって身軽でございます。主は世を去り、幼き子の隆清と二人だけ、庭の鶴は放ち、召使う者も少なく、いつにても福原に移れます。さりながら棲む邸を建てますまでは、父君の山荘の隅に置いて戴けますなら、すぐにも京を立って参ります」
「おお、典子さえその気なら喜んで福原の隅どころか、眺めよき居間に心のどかに起き臥しなさるがよい。母は京を離れるがさびしい心地のなかにも、寛子のほかは娘たちの顔もしばらくは見る折もないのが、まことにやるせなかったに・・・・典子が来るならどのように嬉しいことか」
この末娘を京に残して行くのが心残りで、しばしの別れにその顔を見に来たような母が手離しで喜ぶのを前に、典子は母に告げたいことがあった。
「新都の仮御所は平家の山荘に置かれるゆえ、京とはちごうて、多くの朝臣の控える所も手狭とて、信清など侍従のなかばは御所御造営成るまでは京の御所を守るようにとのお沙汰で、信清はしばらく京にとどまりますが、それと申すも中納言内侍の御産もせまられたので。信清は京にとの思召しかも知れませぬ」
中納言内侍は典子の継娘であり、信清の実妹である。先年高倉天皇の寵を受けて第二皇子守貞親王の生母となったのは、中宮徳子から今上(安徳天皇)御誕生後間もなくのことだった。そしてその翌年のいま、またもや御産ま近しとは、典子にとって義理の娘ながら中宮徳子の妹としておもしろからぬ感情がおのずと起こるのだった。母君もさぞかしと思うと告げるのがたゆたわれる。
「それはもう耳にいたし、二の宮(守貞親王)と同じように能円の邸にて御産をと近く新院御所をさがられます。典子の案じる事ではありませぬ」
時子がすでに知り、そのはからいもしたのは、弟元中宮大夫ちゅうぐうのだいぶの時忠が高倉帝御譲位後の上皇院庁の別当(長官)を勤めるので好都合なのである。時子はほかならぬ典子の継娘のためには、それだけの処置は心配りをしていた。
「典子が福原へそにょうに早く移る気持になろうとは、知らなんだゆえ、そなたと隆清を伴う準備は今からでは間に合うまい。だが、そのあと入道さまの近習数名と西八条の奥から縫物所の針女しんみょうたちも移って行くによって、その時は六波羅の侍たちが警護して参る。おお、その時に典子と隆清を大切に囲んで来させようぞ」
と言い、かたわらに控える安良井に、
「もとよりそちは共にであるが、あちらに参れば息子の小六郎が門脇殿の山荘に仕えるあっぱれの騎馬の武者振りを心ゆくまで眺めらえよう」
安良井は手をついて、
「まことにありがたき福原へのお供でございます」
「では、改めて西八条から沙汰があるまでに、いつなんどきでも立てるように支度を ── と言うても、しばらく不自由せぬ衣裳だけでよい。もうながの年月を入道さまが御保養の荘とてなにも事欠かぬだけの調度その他は一切備えてあるゆえ」
と時子はこまごまと指図した。
2021/01/15

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