~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慟 哭 (一)
福原から還都以来、六波羅池殿(頼盛邸)にて御療養中の高倉上皇は、翌治承五年(1181)一月十四日寅の刻(午前四時)崩御された。年齢二十一歳。
その短い御生涯は、天皇時代も父君法皇の院政下にあり、また上皇となられての院政も名ばかりだった。世に残された中宮徳子よりの安徳帝、小督こごうよりの内親王、修理大夫のむすめ殖子よりの第二皇子、少将局よりの第三皇子、上皇福原の新都にお移りの間に能円邸でふたたび殖子より御誕生の第四皇子である。
崩御の折りは源氏蜂起のただならぬ世とて、きわめて簡略な葬送で清水きよみず音羽山の清閑寺にて火葬後、法華堂陵に葬り奉る。
典子の継息子信清は、高倉天皇の頃から上皇となられても仕えたので哀悼の念は深く、
「お心優しくおわしただけにお気弱にて御健康もそこなわれたと惜しまれてなりませぬ」
と典子に言う。信清は何かにつけて継母にわけへだてなく親しんで打ちとけるたのもしい息子である。この信清が高倉天皇を追慕する心情は典子にもよくわかるが、彼の妹の殖子が寵を受けて守貞もりさだ親王、つい昨年も尊成たかひら親王をあげた事実は、典子としてはわが姉の中宮徳子と上皇の間にうすら冷たい隙間風が吹くような気さえ覚える・・・もっとも一夫多妻は上は皇室から公卿、武家階級の富める生活には当然の習俗だったとは言え、中宮と上皇の間がどの程度の愛に結ばれたか知るよしもない。
あの福原でも、幼帝と中宮は雪の御所に、上皇は池殿の山荘におわしたが、はたして相互にいかほどの交情があったか、典子の察するところでは、いかにも淡いとそよそしい感じで、中宮はひたすら幼い幼帝を生き甲斐としてのみお暮しのようであった。
典子がそうした感慨をもよおしている時、信清が思い出したように告げた。
「藤壺をさがられて久しき右京大夫が弔歌を中宮へささげられたと申します」
右京大夫は母夕霧を看護のために内裏の中宮のおわす飛香舎ひぎょうしゃ ── 庭に藤が植えられ藤壺ともいう ── を退出、母の死後もそのまま引き籠もっていた。
「どのようなお歌でございました」
「雲の上に行くすゑ遠くみし月の光きえぬと聞くぞかなしき ── さような一首でした」
「どのようなお歌でございました」
「雲の上に行くすゑ遠くみし月の光きえぬと聞くぞかなしき ── さような一首でした」
典子にはそれが型にはまった歌のような気がした。彼女が、典子の甥の平資盛と恋愛の噂のあった頃の恋歌らしいにには真情がこもった気がしたが、信清の前では生意気な口をつつしんだ。
「右京太夫さえ、そのように悲しまれるのですから、まして中宮におかせられてはどのように・・・」
信清はそう言うが、典子から思えば彼の妹の殖子は中宮徳子の御産の翌春高倉天皇の第二皇子を生み、上皇となられてからも第四皇子をあげている。上皇の御寵愛なみなみならずと思えるだけに、上皇崩御の悲しみはひとしおと思うが、信清は中宮の妹典子の手前それに触れようとせぬ。
けれども、典子はその殖子の父信隆の未亡人として継娘の殖子に母の責任もあった。
「上皇おかくれのあとは、御所に仕えしいずれもさがられましょうが、典侍てんじ(殖子)はこの邸がお里ゆえ、いつなんどきにてもお迎えいたしましょう。広い母屋は父上みまかられてからは、わたくしと幼き隆清には広過ぎます。わたくしたちは北廂きたびさしの方に移って、典侍は侍女をお連れになって母屋の広いところにお暮しになられてはと考えて居ります」
二皇子の母君のために実家の母として典子は心を配らねばならぬ。
「母上そのお心づくし、まことにかたじけなく典侍も思いましょうが、すでに伯母の唐橋局が老後に備えた三条通の邸に入ると定めて居ります」
と信清は答えた。
第三皇子の生母少将局は御所を出れば実家の平義範に身を寄せるが、殖子は中宮の妹君を母とする実家をはばかる思いもあり、伯母の唐橋局を幼い日から母代わりとしたゆえでもあった。
── その後、信清は今までの上皇御所へ出仕から中務省 ── 宮中の諸事をつかさどる省に直属する従五位の侍従なみになった。これは宮廷の儀式に臨時に侍従を補佐する役で、俸禄は侍従と同じであった。妹殖子が二皇子の御生母とあって、信清はとかく皇室関係の職から離れずに置かれる。
2021/01/19
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