~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『女 人 平 家 (下) 』 ==
著 者:古家 信子
発 行 所:朝日新聞社
 
慟 哭 (三)
「汐戸どの初めみなお付きの人は西の対屋に控えられます」
阿紗伎はこう言う。付きびとは入道相国の病室へは入れなかったから。
四人の北の方は。対屋にそれぞれに用意された個室の居間の几帳のかげに入ってくつろがれ、お付きびとはその次の板敷の円座に控える。
阿紗伎の指図で館の侍女たちが唐菓子からくだもの茉莉花まつりか茶を運ぶのをお付きびとが几帳の中へ持って行く。
典子は安良井が前に置く高坏たかつきの上を見やって、
西八条へ参るたびに、これが愉しみであったに、今日ばかりは欲しゅうもない」
とさびしく吐息をつく。この対屋に起き臥しした日の乙女の日の思い出の唐菓子も手に取る気になれぬほど打ち沈む。それはこの人だけでなく、今あちこちの几帳の奥に憩う北の方はみな同じ思いであろう。どこもしいんとして声も聞こえぬ。
安良井もしおれ切っている。
「わたくしども先刻よりこの対にお控えいたすうちに、下屋へ父をたずねて参ると不在、まあそれがお湯殿にお詰めて居りました。いつにても入道さまの御用に備えて毎日お待ちいたすとのこと、御病中の入道さまがまだまだお風呂など召されるはずもないに ── 父はお風呂の熱気で病熱を洗い流されて後、お肩をこの美濃六が指先強くもみほぐして差し上げれば御快癒うたがいなしと申して、典薬頭初め名医の方たちの御手当がまちがいなどと、無茶なことをわたくしに口走り ── 手が付けられませぬ。やがてはお咎めを受けましょうに」
美濃六の娘安良井はわが父の蒸風呂と指圧療法への狂信を歎く。
「案ずることはありませぬ。美濃六は父君のお身体についての奉仕にひたむきのあまり、さよう思い詰めるのもあわれとこそ思え、誰が咎めましょう。早う御快方に向かわれ、お好きなお風呂を召される日の来るのを典子も祈ろう」
── そこへ阿紗伎がまた現れて、
「はや日も暮れますゆえ、御姉妹さまひとまず御帰り遊ばしませ、みなさま西八条に入られて夜もお邸へお戻りなくては、さては入道さまいよいよ御危篤かなど、縁起でもない噂が洛中に広まらぬものでもないと、二位さまお気づかいなされまする・・・」
四台の牛車で四人の北の方が次から次へ西八条へ入られたのも目立つことでもあったろう。実家になんの催し事もないのに婚家から姫たちが集まったからには ── いよいよ入道相国病あつしと情報を広めるかも知れぬ。いま時子と宗盛たちは世間にも敵の源氏軍にも清盛の病体は秘めたかった。四人の姫たちもそれに協力せねばならぬ。
心を父の病床に残して四人の娘たちは、いかにも病中の父の元気変わらぬにひと安堵したかのように、まもなく牛車を各家路に向かわせねばならない。
2021/01/20
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